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わたしはどこから来たの イリーナ・チェルノバイ(女10歳)

わたしはどこから来たの イリーナ・チェルノバイ(女10歳)
 チェメリスイ中等学校4年生 ブラーギン地区

 私のお母さんが「私の運命の中のチェルノブイリ」という作文を書いたノートを見て、チェルノブイリについて知っているの、と私に聞きました。私はとても小さかったころ、ウクライナで原子力発電所が爆発したことは知っていました。それがチェルノブイリ原発という名でした。お母さんの話しでは、子どもたちは5月になってはじめて、放射能汚染地から遠くはなれた所に連れて行かれたそうです。私たちは夏中、ゴメリ郊外の観光センターにいました。私は高い松とその松かさを覚えています。

 弟のチーマは、そのころはまだいませんでした。彼はあとで生まれました。とてもかわいかったです。毎年、お父さんとお母さんが努力して私たちを黒海に連れて行ってくれたことをはっきり覚えています。休息し、泳ぎ、日光浴をするためです。列車の窓からは、楽しい、いろんな色の、まだら模様の畑や、煙突のある工場、山のブドウ畑、数多くのおもしろいものがたくさん見えました。しかし、一番よかったのは、海です。夜でも、天気がよくなくても、海に行きました。海の音を聞きに行くのです。天気がいいと、波は音もなく砂をあらい、私のはだしの足をなでてくれます。怒ったネプチューン(※)が自分の娘たちの髪を引き抜くように、岩に海草がたたきつけられています。そよ風が、夜の鏡のような海から涼しさを運んできます。山には明かりがちらちらしています。ある日、イタリアの船を見ました。それは空に星のように、光っていました。


※ネプチューン
 ギリシャ神話に出てくる海神

 人はどこにでも住んでいます。ただ、私の住んでいるブラーギン地区だけは、空き家がたくさんあります。窓ガラスはやぶれ、人が長いあいだ住んでいません。人は死んだか、どこかに行ってしまいました。恐ろしいことです。まるごと無人の通りもあります。お父さんが「チェルノブイリの事故までは、手を出すと、そこから風が吹いてきた」と言ったことがあります。私は小さいからなのでしょうか、その意味がよく分かりません。私とチーマは、お父さんとお母さんといっしょにいるのが大好きです。両親が、よく病気をするのが残念です。なぜなら、もうすぐ海へ行くし、私はチーマに本を読んであげることができないからです。私は目が悪いのでたくさん本を読めません。私はメガネをかけていて、小児眼科専門サナトリウムに治療で行ったこともあります。

 よかったこともあります。牧師さんが私たちをドイツに招待してくれたことです。そこにまる二日かかって行きました。私はベラルーシがとても有名だとは知りませんでした。ポーランドの田舎にもベラルーシの旗がありました。ドイツの出窓もベラルーシの旗の色でぬられていました。私たちは公園で遊ぶのを喜びました。白鳥が川を泳いでいました。ノロ(※)が道路の上を走っていました。ドイツ人は動物が大好きです。動物がよく太っています。


※ノロ
 シカ科の小動物

 ベラルーシの動物はかわいそうです。森の中では、放射能入りのドングリを食べ、汚染された草を食べています。たぶん、彼らも人間と同じように病気になっていることでしょう。鳥のウソが、長いこと冬になっても飛んできません。ひょっとしたら、チェルノブイリの風が吹き飛ばしたのでしょうか。コウノトリもあまり見かけません。

 私のおじいちゃんとおばあちゃんは、森のそばにある小さな村に住んでいます。とても美しいところです。春にドニエプル川の水が増えると、動物たちは人家に近い島に集まってきます。彼らは人間がボートで村に運んでくれることを期待しているのです。ウサギだったらいいけど(おじいちゃんは一度助けたことがあるそうです)イノシシだったらどうするのでしょう。ヘラジカは泳ぐのが上手です。ヘラジカは水がひくと、森へ走り去ってしまいます。松林にかくれてしまいます。おばあちゃんと花をつみにいったとき、一度だけ、赤毛の子ぎつねを見たことがあります。

 私は、たき火で焼いたサーロとドニエプルで捕れた魚をつかったスープが好きです。私はこんなことを書くのが大好きです。ここは、私の心のふるさとになるでしょう。自然も人間もここに長く住めるようにしてほしいです。恐ろしい原子キノコが生えないでほしいです。きれいな泉の水を飲みたいです。私の両親は孫ができるまで生きたいと思っています。私が大人になって、私の子どもたちが放射能を気にしないでいいようになってほしいです。


二つのひまわり・・・二つの太陽 リリア・アダモーワ(女・16歳)

二つのひまわり・・・二つの太陽 リリア・アダモーワ(女・16歳)
 ピンスク職業技術学校生徒 織物訓練生

 1986年の夏のことだ。夏休みの前に、レニングラードに住んでいるおばさんから電話があった。彼女は興奮し泣きながら、「ベラルーシ人はみんな死ぬんだってここでは言われているの。一か月でもいいから子どもたちを私のところに送りなさい」と言った。父は休暇をとり、私と弟をレニングラードのおばさんの所に連れて行った。私たちは近くの同じ年頃の子どもたちとすぐに仲良くなった。そこでの生活は本当に楽しかった。しかし、ある日、弟とボール遊びをしていると、何人かの男の子たちが近づいて来て、私たちを指さして、笑いながら言ったのだ。

 「やーい。チェルノブイリの坊主頭。暗闇でも光ってる」

 私たちは彼らと一緒に自分たちを笑うべきか、彼らに腹を立てるべきなのかわからなかった。ただ、私たちの心が傷ついたのは確かだ。私たちは、自分の罪が何なのかわからなかった。自分たちが犯罪人に思えた。そんなことがあって、私たちは外で遊ぶことが少なくなった。家に手紙を書いて、早く私たちを連れて帰ってと頼んだ。

 新学年になると、子どもたちの中に、頭痛が始まり、失神したり、気分がわるくなったりするものが出てきた。その原因はただ一つ、放射能だ。

 その一年後、私の家庭に不幸が訪れた。

 母はゴメリ州出身で、親戚はみんなそこに住んでいる。そこのコスチュコフカから、コーリャおじさんが死んだという最初の訃報が届いた。その8か月後、次はダーシャおばさんが死んだと便りがあった。また、放射能が原因であった。

 ホイニキには母のいとこが住んでいるのだが、彼女から「病気がちなので、ホイニキに来て欲しい」という手紙が届いた。母は私を連れていくことをためらったが、私が母を説得した。

 私たちは、ホイニキに行った。この町については、たくさん語られ、書かれている。たぶん、以前は美しい町だったのだろう。いまではあちこちに打ち捨てられた家がある。窓は釘づけされ、庭はイラクサやアカザの雑草が茂っている。涙なしには見られない。窓を十字に板を打ち付けられた家は、「みんなどこにいるの。帰って来て。この家に住んで。待ってるのよ」と叫んでいるようだった。

 もうこの土地では、子どもの笑い声は聞けないのだろうか。疲れた旅人を夏の暑い太陽から守る大きな木は生えてこない。打ち捨てられた一軒の家の雑草の中で2本のひまわりが2つのおひさまのように立っているのが、突然、私の目に飛びこんできた。

 2つのひまわりのくきは細く、花は太陽に向かっていた。それはまるで生命に向かって立っているようだった。よりよいものを求める希望の光に見えた。私は確信した。「すべてが失われたわけではないのだ。ここには生命が戻って来た。私も力を取り戻さなくては」と。

 母はいとこに、私たちの所に来るように説得した。しかし、おばさんは断った。でも今では、おばさんの子どもたちが夏休みにはうちに来るようになった。

 ホイニキには数日しかいなかったが、そこで見たものすべてが、忘れられないものになるだろう。

 ホイニキへの旅の後でさえ、私は、事故が私たちに与えた不幸について完全には認識していなかった。

 すべての苦しみ、すべての損失がわかったのは、「チェルノブイリの子どもたち」というテレマラソンを見てからだった。私はテレビのそばを離れることができなかった。恐ろしくなり、枕に顔をうずめ、何も見たくなかった。母は一日中泣いていた。しかし、人間はすぐに慣れてしまう。8年もたつと、そんなに怖くはなくなる。

 人間には、いつも希望が必要である。最後まで残るのが希望である、というのはいいことだ。

 テレビや新聞で、将来どうなるのかがよく報道される。わたしは「そうじゃない。命が戻ってきているのを、知っているし、信じている」と大声で叫びたくなる。

 私はまだ16歳だ。私の望みは、まだかなってはいない。チェルノブイリの事故の黒い翼が、私をおそったことを考えると恐ろしい。私の人生はこれからだ。私に子どもができる。彼らはどうなるのだろう。私は気分が悪い。いつもめまいがする。でも、私は、人生はとどまることがないことを、希望し、信じて生きる。


苔、ああ苔! ビクトル・ブイソフ(男・15歳)

苔、ああ苔! ビクトル・ブイソフ(男・15歳)
 第二中等学校8年生 クリチェフ市

  「ヒロシマ・ナガサキ・チェルノブイリ。それはどんなだったのか」
    フセボロド・オフチンニコフ著『熱い灰』より

 「1945年8月6日、月曜日。朝、広島の上空に一機のB29(※)が現れた。それはイザリー少佐の操縦する飛行機であった。それまで雲が空一面にかかっていたが、ちょうどその時、広島上空に直径20キロメートルの晴れ間ができた。8時14分15秒、爆弾収納のハッチが開かれた。その後47秒間は、広島の上には太陽が穏やかに輝いていた。そして、音のない原爆の光が一瞬にして、広島を『熱い灰』に変えてしまった。


※B29
 第二次世界大戦中使われたアメリカの爆撃機

 気象偵察機は、小倉も長崎と同じく晴天であることを知らせてきた。爆撃機は小倉にコースをとった。しかし、爆弾投下の直前、日本の南からの風が向きを変え、厚い雲のベールが街を覆った。スワニー少佐は、原爆投下を予備の目的地であった長崎にかえた。こうして長崎の悲劇的な運命が決められた。1945年8月9日11時2分、長崎のある教会の真上で原爆は爆発した。

 日本を占領したアメリカ人は原爆投下とその犠牲について報道することを禁止し、ヒバクシャ問題は日本ではタブーとなった。しかし、時がたつにつれ事態は明らかになり、今では全世界がこの恐ろしい出来事をよく知っている」

  「プラネタ」出版社刊「チェルノブイリ・リポート」(1987年末、5万5千部発行)より。

 1986年4月26日朝、チェルノブイリ原子力発電所で事故が発生した。原子炉が破壊された。周囲にはウラン核燃料(※)とコンクリートの破片が飛び散り、原子炉は死の灰を放出した。事故直後、多くの人が放射能によって、死に、発病した。その日の天気はすばらしく良かった。風はほとんどなく、凪ぎの状態で、太陽は明るく輝いていた。これは不幸中の幸いであったかもしれない。もしこの日、風があれば、事故の被害はもっと早い速度で周囲に拡がり、より悲劇的なものになっていたであろうから。だが、いずれにせよ、平和利用の名のもとに僕たちの国に持ち込まれた原子力が今や牙をむき出して、原爆と同じように放射能によってつぎつぎと人を殺している。

※ウラン核燃料
 原子炉の燃料や核兵器の材料としてつかわれる。

 僕は1979年12月16日に生まれた。事故当時は、6歳すぎだった。そのころのことを、断片的に思いだす。

 朝。湿ったもやが太陽の光をさえぎっていた。父と一緒に菜園に行き、種蒔きの準備をした。そのうち太陽が姿を現し、僕は喜んで一日中太陽の光を浴びた。朝の仕事をすませ、昼食の後、家族全員でモスコビッチ(※)に乗って森へでかけた。


※モスコビッチ
 ロシア製乗用車

 翌日、白樺ジュースをとりに出かけた。ソコロフカのそばの白樺林では白樺ジュースが採取されていた。僕たちはたき火を起こし、サーロ(※)を焼き、ジュースを飲んだ。それは楽しくて、幸せそのものの一時であった。白樺ジュースを家へ持って帰り、知人や友人に分けた。それを穴蔵に貯蔵し、一夏中、飲んだ。

※サーロ
 豚の脂の塩漬け

 その年のメーデー、5月1日も良い天気だった。広場は赤旗でうめつくされ、人々はほほ笑み、喜びにあふれている。僕たちは行進に参加し、演壇のそばでは「ウラー(※)。ソ連共産党に栄光あれ!」とシュプレヒコールをあげた。

※ウラー
 万歳

 5月9日、僕たちのクリチェフの町に第二次大戦の功労者がやってきた。彼らに花束やプレゼントを渡した。クルガン・スラーブイには大勢の子どもや大人が集まった。集会の後、コンサートが催され、市もたった。

 夏の間、両親と一緒にチェリコフ郊外で過ごした。サラノエ湖のそばで、コケモモ、イチゴ、キノコを採った。ソシ川では水泳をし、日光浴をした。

 その年の秋に、僕は入学した。戦争や労働の功労者が学校を訪れ、平和授業があった。また、生徒全員で町の建設850年の祝日の準備をした。祝日の日、町は再び赤旗でうめつくされ、演説、歌でにぎわった。

 チェルノブイリについて僕たちが知ったのは3、4年のころだった。ここから遠く離れたところで、原子炉の爆発があったと聞かされたが、僕たちの地区や町が被害を受けていることは、その時は一言も話されなかった。けれども、そのことをそのすぐ後に知ることとなった。当時、僕たちの国では、チェルノブイリの事故は、日本のヒバクシャと同じでタブーであった。2、3年もの間、誰も森でイチゴやキノコを集めるのが危険だとは言わなかった。僕たちはチェルノブイリの白樺ジュースを飲んだ。セシウム、ストロンチウム、ププルトニウムの入った、キノコやイチゴを食べ、放射能でよごれた太陽で日光浴をし、放射能で汚染された川や湖で泳いだ。

 僕のクラスにアリョーシャ・メリニコバという女の子がいた。彼女の両親は新しく木の家を建て、その家に3年ほど住んでいた。アリョーシャが発病した。保健所が放射能測定をした結果、彼女の家の放射能濃度は基準を超えていることがわかった。その家は、苔の上に建てられており、その苔が放射能に汚染されていたのだった。

 国家のチェルノブイリ委員会は、彼らに新しく別の家を建て、アリョーシャはサナトリウムに送られた、だが、病気になっているのはアリョーシャ1人ではない。

 ここ数年、僕たち同級生はナリツィクやビチェプスクで休暇を過ごした。去年は放射能汚染がひどいボトビノフカ、オソベッツ、スルツクの子どもたちと一緒にドイツを訪れた。飛行機は2時間半で北ラインのキュテルスロの町に着いた。僕たちは、それぞれ子どものいるドイツの家庭に分かれた。ドイツの人々と僕たちはお互いによく理解しあえた。というのは、そこにはカザフスタンやロシアからの難民が住んでいて、僕たちの通訳をしてくれたから。

 僕はグロフェル家の美しい木の家に滞在した。そこには男の子3人がいた。マークス、ティーロ、ヤンだ。コンサート、サーカス、軍事科学博物館へ連れていってもらった。公園に行き、メリーゴーラウンドにも乗った。一番の思い出は、僕の国では見たこともない螺旋状の滑り台のあるプールで泳いだことだ。上から下へ何回も滑り降り、気が済むまで泳いだ。子どもたちと一緒に一つの部屋に住み、食事をした。自転車を一緒に乗り回した。彼らのお母さんとは、よく食料品店に行き、夢でしか見たことのないような豊富な食料品に驚いた。

 ドイツ人の友人たちは僕たち一人ひとりにプレーヤー、カセット、ジーンズ、ジャンパー、きれいなスポーツバック、チョコレート、キャンディをプレゼントしてくれた。ドイツはすばらしかったが、少しだけ自分の町や、友だち、故郷の自然が恋しかった。

 「ベンツ」社製のバスでドイツ、ポーランドを通って帰国し、帰ってからドイツに手紙を書いた。秋には小包や手紙が送られてきた。グロスフェルさんは次のように書いてきた。

 「小包と写真を送ります。こちらはすべて順調です。君もそうだと思います。報道によると、チェルノブイリ原発は完全に活動を停止したわけではなく、今でも放射能を出しているそうですね。チェルノブイリが再び爆発しないよう、神様にお祈りをしています。君たちも、私たちのために、神様にお祈りして下さいね」

 全世界平和委員会(※)は毎年8月、核兵器の禁止と原爆被爆者との連帯のための行動週間を実施することを決めている。肉親を失った広島・長崎の人々と、僕たちの同胞だけではなく、全人類がこの日、新たな誓いをくりかえす。広島の平和公園の石碑に刻まれた「安らかにお眠りください。あやまちは二度と繰り返しませんから」という誓いを。


※全世界平和委員会
 旧ソ連時代にできた平和を求める国際組織

 同じように人々はチェルノブイリとその悲劇をも忘れないようにして欲しいものだ。真実を語ることを禁じられたことを忘れてはならない。あざむかれて、野外の太陽のもとで祝日の行進に参加させられたことを忘れてはならない。そして、ベラルーシ人、ロシア人、ウクライナ人に対し、真実を隠した人の名を公表してほしい。真実は決して隠したり、地中に埋めたりしてはいけないものなのだ。

 学校では、何年か前から「チェルノブイリの日」をもうけた。そうろくに火をともして、事故後になくなった生徒、先生、知人をしのんでいる。今では、たとえ誰かがいやがっても、人々は公然とチェルノブイリのことについて話しているということを、僕は大人たちから聞いている。

 アメリカ人、日本人、ドイツ人、ベラルーシ人、世界中の人にとって、地球はひとつである。地球を大切にしなければならない。地球は僕たちの家である。一緒になって地球を守らなければならない。

チェルノブイリとは…… オリガ・セメンチュック(女)

チェルノブイリとは…… オリガ・セメンチュック(女)
 第二九中等学校11年生 ゴメリ市

  わがスラブ民族の大木に
  チェルノブイリの有刺鉄線が
  巻き付けられた
   タイシア・メリチェンコ

 チェルノブイリとは、通学路で見る露にぬれたアスファルトの道、空、木々、そこで騒いでいる鳥など美しいものすべてが、死にさらされていることを信じないように自分をだまし続けることなのだ。つい最近まで、生命のシンボル、そして天の恵みだった夏の雨が、今では毒され、とても危険なものになったということを、以前は、できるだけたくさん吸うようにと医者がすすめた大気が今は病気と死をもたらすことを。そのうえ、大地とすべての生きものをあたためていた黄金の陽光が今では無慈悲にも、放射線を浴びた人間の病気を加速させ致命的な打撃を与えることを。

 チェルノブイリとは、ベラルーシ文学の授業中に、それまでは誰もが知らなかったような作品が読まれることである。これらの作品のすべてが、一つの共通のテーマ……チェルノブイリの事故でまとめられている。これらの本はすべて、恐ろしい死の現実をするどく理解させる。

 アレーシャ・アシベンコの「不吉な星」は、心の痛みなしには読めない。ことに、チェルノブイリで致死量の放射能に汚染され、死の静寂が漂っている村から脱出してきたゴメリの詩人の作品は。

 チェルノブイリとは、物理の教科書で、放射能から身を守る方法を読むことである。しかしそこには、「(放射能をおびた)施設から遠ざかる」ことしか書かれていない。こんなばかばかしい本を読むと、ずたずたに引き破り、この本をつくった人の目をのぞき込みたくなる。

 チェルノブイリとは、恐ろしいほどの苦痛であり、魂の退廃のことである。「施設から遠ざかる」という助言通りに、ロシアにある町に療養に行くとする。そこでは同情や援助ではなく、冷淡さや敵意にさえ出合うのだ。そこでは、あなたと同年の子どもの両親たちが、「チェルノブイリの坊主頭」たちが自分たちの一人娘に何か危害を加えるのではないかをおそれている。

 チェルノブイリとは、贖罪のゾーンのことである。これは、30キロゾーンといわれるものとは別物である。ベラルーシの大地は長いことゾーンと呼ばれることだろう。私のふるさとの大地は全て、刻印されてしまったのだ。チェルノブイリの事故のあと、外国人も含め多くの人がベラルーシに来るのを避けるようになった。

 チェルノブイリとは、恐怖。未来に対するあらゆる恐怖のことである。チェルノブイリの体験は、森やきれいな水や、空までをも疑わせる。いま、医者に行くのが怖い。だって、検査のあとで医者から何を告げられるのか。放射能の目に見えない攻撃は、すぐにはふりかかってこないにしても、確実に続いているからだ。

 チェルノブイリとは、短期間滞在する外国人が、なんとか恐ろしさを隠した顔で、「放射能の数値が通常の何十倍もあるところでどんな暮らしをしていますか」と、質問することである。もちろん彼らが、私たちを理解することはできないだろう。以前、事故のあとで、ある政府の幹部が何を考えていたか、私たちが全く理解できないように。彼は言った。「わが国では、自然と人体に対する放射能の影響について、短期間でも長期にわたっても、多くの経験が蓄積され、不偏化されている。ゆえにチェルノブイリには放射能の悪夢はなく、被害の起こることはないだろう」と。

 チェルノブイリとは、第二次世界大戦よりもっと恐ろしい本当の戦争のことである。人類史上におこった戦争の中で最大のもの。ベラルーシの大地に冷酷な敵が荒れ狂っている。人殺しは見えないし、いつ彼と出合っているのか感じないし、どう闘っていいのかもわからない。でも、この見えない悲惨な戦闘にも多くの英雄がいる。消防士、飛行士、労働者、職員など、原発事故後のきびしい状況と戦い、自分の健康や生命までも犠牲にして私たちを救ってくれた人々である。

 チェルノブイリとは、絶望や不気味な予感がまるで鋼鉄のペンチのように心をしめつけること。この心の痛みと無力さから、全世界に向かって叫び、神にあわれみを乞いたくなることである。「神様、どこにいるのですか。あなたは何の罪でベラルーシの人々にこれほどの苦悩と苦痛をさずけられたのですか」と。

 チェルノブイリとは、多分、地上で行われたすべてのことへの母なる大地の恐ろしい復讐である。私たちの父や祖父たちの償うことのできぬ罪業、母なる大地への数十年にわたす愚弄、果てしない偽りに向けられたものだ。私たち自身が70年も取りつかれたようにチェルノブイリに向かって歩み続け、原子炉の爆発へとたどり着いた。他でもない、われわれ自身がこの悲劇の罪人なのである。

 それでも私は、チェルノブイリ事故が、わが祖国の歴史の最後の1ページにならないように望んでいる。私には夢がある。いつの日か、せめて私たちの孫の時代には、川や湖が再び蘇り、雨もまた命を与えてくれ、そして、太陽は再び魔法の光で、私の大切な疲れ果てた大地をやさしく暖めてくれるという夢が。私はひたすら夢みている。それでなければ生きてはいけない。


鏡さん、話しておくれ ビクトリア・ルゴフスカヤ(女・16歳)

鏡さん、話しておくれ ビクトリア・ルゴフスカヤ(女・16歳)
 第七中等学校10年生 スルツク町

  遮断機のむこうに 雲がたれこめている
  二十世紀は人類の行き止まりなのか
   イーゴリ・シクリャレフスキー

 それは、そうとう前にあったことだが、私はいまでもその日のことを覚えている。4月の終わり頃で暑かった。草は青く茂り、乾燥した風が吹いていた。穏やかな春の日、そんな日に誰が死の粒子の事を想像できたろう。すべての生き物を殺し、害をあたえる物質が私たちのすぐそばの空中にただよっていたなんて。いつものように友だちと一緒に外で遊んでいた私は、家のそばの草原で小さな手鏡をみつけた。8歳の女の子にとって、それは何とうれしかったことか。その後、おばあちゃんが、焼きたてのキャベツ入りのピロシキを食べるようにと、私を呼んだ。そのおばあちゃんはもういない。けれどその日見つけた鏡は、いまでもカバンに入れて持ち歩いている。私はいつもその鏡をのぞき込み髪をなおしている。

 太陽、草の鮮やかな緑、ほほ笑むおばあちゃん、キャベツ入りのピロシキ。これらはすべて過去のものになってしまった。「チェルノブイリ」という恐ろしい一語がそれを打ち消してしまったのである。私が、最初にチェルノブイリが本当に恐ろしいものだと理解したのは、隣のおばさんの話からだった。おばさんは涙ながらに、彼女の姪の葬式に行った話しをした。彼女の妹の小さな娘は病院で白血病のために死んだそうだ。この小さな女の子にこんなに早く死が訪れることを、誰が知っていただろうか。この子が知るはずだった初恋の苦しさと喜び、母親になる幸せ、生きる幸せ。何も知らないで死んでいくとは、この子自身も思いもよらなかったろうに。

 「ママ。お人形さん、買って。ベーラちゃんと同じもの」

 ある日、女の子は母親にこうおねだりしたそうだ。

 かわいそうにそのこの母親はこの一人っ子の病気で、すっかりふけ込み、わずかのお金も高価な薬のために使ってしまっていた。こんなことさえなければ、母親はたぶん娘にこう言っただろう。「でも高いのよ」と。けれども病床の娘の欲しがるこの人形が、死の淵にいる子どもに希望を与え、元気づけるのであればと母親はいとしい娘に人形を買い与えた。しかし、そのかいもなく女の子は小さな指で人形を抱きしめたまま死んでいった。

 私の母は、隣のおばさんを長い間なぐさめて、薬酒を飲ませた。それから母は私に部屋から出るように言った。

 この日、私ははじめてチェルノブイリの意味が分かった。それは放射能であり、白血病であり、ガンである。子どもたちはそれによって死んでいく。何の罪でこうなるのか。このような子どもはどれだけいるのか。私の知り合いが、悲しいことに有名になってしまったミンスクのボロブリャン(腫瘍学研究所があるところ)で実習をしたときのことを話してくれた。

 「病院をかけまわっている子どもはまるで宇宙人のようだ。髪はなく、まつげもなく、顔には目だけ。ある男の子は骨に皮がついているだけ。体は灰色だった。最初は避けていたが、あとでは慣れてしまった」

 慣れた……。私たち、みんなが慣れてしまったら、この先どうなるのだろう。誰かの怠慢で原発が爆発し、海や川や空気を汚し、人が死んでいくのに慣れてしまうとしたらどうなるのだろうか。

  十七世紀 殺された人
   330万人
  十八世紀 殺された人
   520万人
  十九世紀 殺された人
   550万人
  二十世紀 400万人以上
   ヨーロッパだけで

 モギョリョフ出身の詩人イーゴリ・シクリャレフスキーがこの詩を書いた(詩集『平和についての言葉』1984年)。彼は、この恐ろしい数字にどれだけの人命が付け加えられるか知らなかった。4千万人もの尊い生命が。

 何人がガンで死んだのだろう。何人が白血病で死んだのだろう。このそっけない統計のうらには何があるのだろうか。何千、何百万人という人々が不幸でうちひしがれた。学校の物理の授業で先生がチェルノブイリ原発事故の被害について話してくれたとき、私は先生の話にショックを受けて、ノートに絵を書き残した。8本足の馬、尾が二つのキツネ、巨大なトマト……。そのころの私にとっては、たぶん、それらはすべて空想によるものでしかなかった。だが、つい最近、雑誌の『アガニョーク』の古い号をパラパラとめくっていた時、私は突然凍りついてしまった。これは何だ。痩せこけた青白い顔に大きな苦痛の目をした子どもの写真。日本の九州の、生まれつき手のない盲目の小さな女の子の写真だった。この子の母親は原爆病で死んだそうだ。ああ、いつの日か、私の愛するベラルーシの子のこんな風にうつろで懇願する目に、雑誌の中で出合うことになるのだろうか。

 もっと恐ろしいことがある。ある種の人たちは他人の不幸をしりめに金儲けをしている。ある者は汚染ゾーンから持ってきたトマトを市場で売り、またある者は異常にきれいで熟した、大きいリンゴをバケツごと売りつけている。家と財産を放り出して逃げた人々がいる一方でトラックでその家に乗りつけ、家具、じゅうたん、クリスタルガラスの花瓶を盗み出しては、町で売りさばいている者がいる。こんな風にチェルノブイリの闇商売は続いているのだ。このような不道徳な心ないことが起こる原因はどこにあるのだろうか。飢えや貧困がこの人々を罪の道に走らせるのではあるまいか。

 「人の良心は清くあるべきだ」詩人ボズネセンスキーのこの訴えは、今の私たちにこそ必要なものだ。人々の良心は、恐ろしい戦争中でさえ申し分なく残っていた。当時は、自己犠牲の崇高な精神や、私心のない禁欲主義が要求され、それが発揮されたものだった。他人の不幸で金儲けするこの成り金たちはどこから現れてくるのだろう。この寄生虫どもを人間とよんでもいいのだろうか。「人であるということは、自分自身の義務を意識することである」とフランスの作家サン・テグジュペリが言った。そのとおりだ。危険に直面するとき人の無責任と弱点は、全人類に災害や事故や滅亡をもたらす。まだ遅くない。踏みとどまって、ツルゲーネフの小説にでてくるバザーロフのように行動しよう。「自然は寺院ではない。作業場である。人はそこの働き手だ」と。何年間、人はこのような「働き手」だったのだろうか。有名なポーランドの批評家スタニスラフ・エジ・レッツが言ったことを思いだしてみよう。「人類の手にすべてがある。だからこそよく手を洗うことだ」と。

 チェルノブイリ。現実と、そして私の想像。すべてが混じり合って区別がつかない。穂がやけ焦がれた畑、鉛色の雨雲でおおわれた重苦しい空、するどい叫びで静寂をやぶって旋回する孤独のカラス。チェルノブイリ……。ずいぶん昔だった……。昔だろうか。残念ながら、チェルノブイリの悲劇は続いている。それを、いつも思い起こさせるのが、小さく丸い鏡。それを見つけたのが、あの忌まわしい日、1986年4月26日。


プロフィール

子供たちのチェルノブイリ

Author:子供たちのチェルノブイリ
昔、こどもたちのチェルノブイリの作文集を選ぶボランティアをしました。この時の衝撃は今も心に残っています。
 連絡先
 ohanamoon@gmail.comまで

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