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ゾーリカ・ベネーラのうた オレグ・ポノマリョフ(男・11歳)

ゾーリカ・ベネーラのうた オレグ・ポノマリョフ(男・11歳)
 ゴールキ町 第一中等学校7年生

 僕が住んでいるゴールキは、モギョリョフ地方の西にある緑の多い快適な町です。このあたりには、チェルノブイリの悲劇はそんなにはありませんでした。しかし、チェルノブイリの悲劇が全ベラルーシ人をおそっていることはよく知っています。原発が爆発し、ベラルーシに苦痛が居着いてしまったとき、僕は4歳でした。被災者の不幸や痛みを少しだけでも理解できるようになったのは学校に入学し、読み書きができ、歌をうたうようになってからです。祖父は放射能汚染地図を見せてくれ、何千人もの人が子どもと一緒に脱出したと話してくれました。

 僕の学校にアリョーシャ・ボリセンンコという女の子がいます。彼女は両親と一緒にブラーギン地区のコルマリンという町に住んでいました。そこはチェルノブイリ原発から32キロのところにあります。事故の時、アリョーシャは妹と一緒に外にいたそうです。放射能はベラルーシに向かって飛んできました。アリョーシャのママはすぐに姉妹を連れ出し、その日のうちにおばあちゃんの住むゴールキに連れていきました。ゴールキは汚染されていなかったので、彼女たちを不幸と死から遠ざけるためにはとても賢明な判断でした。しかし、彼女のママは、放射能でいっぱいのコルマリンにもどったのです。そのために、治らない病気や死に脅かされることになりました。

 アリョーシャと妹はおばあちゃんのところに残りました。彼女はママやパパに、早くここに来るようにと手紙をたくさん書いていたそうです。アリョーシャは、ママから頭をやさしくなでてもらい、両手で静かにあやしてもらうのが大好きでした。そして、ママの笑顔がとても好きでした。しかし、原発事故のあとママの笑顔が少なくなりました。ママに会うこともめったになくなり、寂しくてしかたがありませんでした。

 アリョーシャの両親は、ちょうど一年間ゾーンに住んでいましたが、ついに脱出する決心をしました。ママの姉妹がグルジアに住んでいたので、家族全員でそこに引っ越したのです。しかし、そこでの生活も長くは続きませんでした。というのは、戦争が始まったからです。銃撃や人殺しが始まり、子どもたちも殺されました。外に出ることもできません。アリョーシャの家族は恐怖と涙の日々を送っていましたが、やはりがまんできず、ゴールキに帰ることになりました。パパは郊外のコルホーズに就職が決まり、そこの寮に住むことになりました。それは彼にとっても、苦しいことでした。いったいいつになったら、当たり前の生活にもどれるのでしょう。だれがそのことを保証してくれるのでしょう。

 苦しんでいる人々をどうしたらいやしてあげられるのでしょう。ろうそくの灯のような希望でもいいから与えることができたらと思っています。もしかしたら、歌なら少しの間だけでも苦しみを忘れさせることができるのではないでしょうか。僕は舞台で歌っているときはいつもこのことを考えています。

 母の話しでは、僕はまだおしゃべりもまともにできない1歳半のときにはもう歌っていたそうです。幼稚園では、朝の集会のとき、合唱に参加していました。その後、音楽学校に入学し、尊敬するアレクサンドル・バシャリーモフ先生から音楽や歌を教わりました。そして、彼と一緒にシュクロフ、ミンスク、ノボポロツク、ドリービンの町にコンサートのために出かけました。サンンクト・ペテルブルグで開かれた子ども軽音楽国際コンクールでは、ベラルーシの名誉をかけて参加し、2位に入賞することができました。

 とくに感動したのは、ミンスクでの慈善コンサートでした。そのコンサートは孤児、障害を持つ子ども、大家族の子ども、チェルノブイリゾーンから移住してきた子どもたちのために開かれたものでした。僕は歌を歌うときには、力いっぱい、心から歌うようにしています。その時も、そうしました。観客が、少しでも喜びと希望を持てるように願って歌いました。僕は、このようなコンサートをもっと開いて欲しいと思います。不幸な子どもたちの心は、コンサートのときだけでも暖かくなるでしょう。コンサートでは、お金が集められ、子どもたちの衣服や食料を買うために使われます。彼らは生活に困っています。チェルノブイリの病気を持った子どもたちは特にそうです。彼らはとても苦しんでいます。たぶん多くの子どもたちの病気は完治しないでしょう。誰が悪いのでしょうか。原発でしょうか。それとも無責任な大人でしょうか。

 ミンスクで開かれた第一回ベラルーシ語再生(※)の日の記念コンサートのときです。そこで僕は、「ゾーリカ・ベネーラ(空を焼く明星)」の歌をうたいました。うたい終わったあと、拍手がなりやみませんでした。舞台から退場すると、白髪の背の高い男性が近づいてきて、僕のちいさな手をにぎりしめました。その男の人は目にいっぱい涙をうかべ、目をしばたいていました。その人は詩人のニール・ギレビッチさんでした。僕の愛するこの叙情的な歌に彼は感動したのです。僕はこのことに強く感銘を受けました。このときのコンサートを思いだすと、僕の目の前に見えてくるものがあります。チェルノブイリ原発の上に出現した黒い雨雲が、僕の祖国ベラルーシを次第におおい尽くしています。でもその上には明星(ベネーラ)が輝き始めたのです。その暖かくやさしい光は、雨雲をつらぬき、大地のすみずみを照らし、人々の心を満たしてくれます。チェルノブイリの雨雲のため、暗黒に身を沈めていたすべての人が突然よみがえり、天をあおぐようになりました。そこにはもう雨雲などありません。夕焼けの空には、明星が堂々と輝いています。僕はこのようになって欲しいと切に願っています。このようなことはただの願望で終わってしまうかもしれません。しかし、僕は何度も何度も歌い続けます。歌をきくことによって、人々が少しでも楽になり、大きな不幸から抜け出すことができたらと思っています。


※ベラルーシ語再生
 旧ソ連時代、ロシア語が国語化され、ベラルーシ語がすたれていた。独立後、ベラルーシ共和国政府がそれを再生させる運動を起こした。

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子供たちのチェルノブイリ

Author:子供たちのチェルノブイリ
昔、こどもたちのチェルノブイリの作文集を選ぶボランティアをしました。この時の衝撃は今も心に残っています。
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 ohanamoon@gmail.comまで

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