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母とわたしと祖父の友人 ガリーナ・ロディチ(女)

母とわたしと祖父の友人 ガリーナ・ロディチ(女)
 第三中学校10年生 チェチェルスク

 太陽の輝く春の日だった。私と母は、白樺とななかまどの苗木を家の窓の下に植えるために、村のそばの森へ行った。そして、それを家の近くまで運んできたとき、突然、嵐が吹きつけてきた。空は見えなくなり、太陽も見えなくなった。ほこりは目や口に容赦なく吹きつけた。嵐は突然始まり、そして、突然おさまった。

  あんなにも幸せだった
  カミツレの花ひとつに 雑草の一本に心をおどらせ
  森を歩いては カッコウの歌を聞いた
  「カッコウさん カッコウさん
  私はあとどれくらい生きられるの」
  ママの瞳は光を失い
  口からはほほ笑みが消えた
  ママの髪には白いものが目立ち
  心には恐怖が宿った
  チェルノブイリ チェルノブイリ
  お前は不幸をもって来た
  もうじき私は死ぬの まだこれっぽっちしか生きていないのに
  チェルノブイリ チェルノブイリ
  一体お前は何をしたの
  残されたのは何百万のただれたむくろ

 当時、チェルノブイリに何が起こったのか誰も知らなかった。チェルノブイリの漆黒の翼はベラルーシ全部を覆った。放射能のちりが、林にも、クローバーの牧草地にも、畑にも、ソシやドニエプルの川にも、花の咲きほこる公園にも、家々の屋根にも落ちてきて、黒い竜巻のように、私たちの生活に乱入してきたのを、私たちは知らなかった。見えない放射能が蔓延し、甲状腺は放射性ヨウ素で被曝したけれど、誰も警告を出さなかった。

 地球的規模のチェルノブイリ事故が、チェチェルスクやその周辺の村々を襲ったときでも、チェチェルスクの人は誰も自分たちの不幸に気づかなかった。キエフからのラジオを聞いたとき、人々は悲しみ、ポレーシェの運命が伝えられると人々はためいきをつき、ナローブリャから疎開する人々のバスを見ると泣き出した。だけど不幸は遠くに起こっていて、ここは安全だと考えていた。しかし、6月初め、チェチェルスクの子どもたちも「きれいな」ところへの疎開が始まった。母も祖母も見送りの時に泣き、子どもたちも初めて母親との別れに泣き出した。私の母は教師だったので、走り始めたバスの中の子どもたちをなだめた。子どもたちは泣くのを止め、鉄道の駅まで歌い、列車の中の2時間、さらに歌い続けた。

 マリーナちゃんが母に質問した。「先生。おばあちゃんたちは、なぜ私たちの列車に十字をきったの」と。目には耐え難い苦痛の色を浮かべてはいたが、みんなを励まし続けてきた母もついに、デッキに飛び出し、大声で泣いた。

 セシウムは、畑や牧草地や緑のカシの森に侵入していた。リンゴの木も、森の中の草地も川も敵になってしまった。どこでもストロンチウムやセシウムがある。あれから8年、チェルノブイリの被害は何を引き起こしたのだろうか。この間、私は森にはたったの一度しか行っていない。イチゴは採ってはいけない。キノコはみんな毒キノコになってしまった。矢車菊やカミツレの花は摘んでいけない。それで花束をつくれない。だめ、だめと皆が言う。

  ぼうや
  はだして草のうえを歩いてはだめよ
  手で砂をさわってはだめよ
  雨の中を 走ってはだめよ
  川であそんではだめよ
  でないと 病気になりますよ
  わたしのいとしいおじょうちゃん
  森の草地であそんではだめよ
  花をつんではだめよ お願いだから
  でないと あなたも うさぎちゃんも
  死んでしまうわよ
  子どもたちはこう答えた
  「だめ だめ だめ もうたくさん!
  早く ストロンチウムやセシウムをとってしまって
  そうしたら
  森の草地で元気にあそべるのに

 2年前、私の祖父は、ふるさとの村が、どのように埋められて、丘になってしまったかが書いてある手紙を友だちから受け取った。この友人はその様を見ていたのだった。祖父は石のようになり、立ちつくした。足が土に根をはってしまったようだった。祖父は長い間立ちつくした。そのあと、目にみえない重力におしつぶされるかのように、ゆっくりと歩きはじめた。

 その手紙の言葉のひとつひとつが痛みにおしひしがれていた。心臓はとても持ちこたえられそうにない。このような苦痛に誰もが耐えられるわけではないのだ。

 この村の埋葬とは、家のそばにパワーショベルで掘った5メートルの穴を用意しておき、消防車がホースで放射能のほこりが舞い上がらないように、家の屋根から土台まで水をかけ、キャタピラのついた巨大な怪物が、その大きな穴に家をなぎ倒すのである。私は、このただの葬式ではない不気味なものを、見たいと思った。この出来上がった黄色い土まんじゅうのことを考えると、心臓が締めつけられ、のどがつっかえたようになった。

 その村は、まさに死の村になってしまった。家々はもの悲しい静けさの中に建ち、雑草でおおわれている。いくつかの家の窓には十字の板が打ち付けてあり、通りには人も、犬も、猫もいない。ただ墓穴を掘る低い土の響きがあたりにこだましているだけ。人のいない村。死の村。

 チェルノブイリは私たち一人ひとりの痛みであり、みんなの痛みである。死ぬまで自分自身を難民、被災者として感じていかなければならない移住者たちの、その痛みなのだ。年に一度、招霊祭(※)の日に、親族や知人が葬られている墓におまいりすること以外、彼らが自由に自分の村、自分の家にいけるのは夢の中だけなのだ。


※招霊祭
 ロシア正教の宗教行事

 この4月の黒い日に、数千のチェルノブイリの被災者たちは、生きるうえでもっとも大切なもの、聖なるもの、自分の根ざすところをなくしてしまったのだ。

 私の住むチェチェルスクも、情け容赦のない恐ろしい運命に落ちた。そこはチェルノブイリによる汚染地帯であることが分かったのだ。

  ふるさとで生きたい
  ふるさとで、朝焼け、夕焼けを見たい
  なつかしいふるさとの空気を吸いたい
  私に何の罪があるというの

 私たちへの罰は、放射能で満ちあふれた土地で暮らすことである。そして私たちは、二十世紀最大の悲劇を引き起こした無責任さに対する他人の罪をも背負わされてしまった。

 ふるさとはふるさとである。チェルノブイリの灰に満ちていてもよい。人々は、たとえ土地が病んでいても、それを守りぬく。事故後、多くの人にとって、土地は幾倍も貴重なものになった。私たちは、8年もチェルノブイリの十字架をかついでいる。8年もだ。しかし、チェルノブイリは過去のものではない。今日であり、明日なのだ。そして、私たちの未来ですらあるのだ。

 2、3日前、コウノトリの群れを見た。コウノトリは私たちの傷だらけの土地にやってきた。彼らは秋までここで過ごすために、毎年やってくる。彼らは人と同じく、自分の意志で小さな土地に居続ける。どこへも飛んで行ったりはしない。

 これはばかげたことなのか。頑固なのか。いや、ただ愛なのだ。裏切ることができないのだ。忠実なのである。チェルノブイリの汚染地区に、私たちは生きている。不幸や病気に抗して、生きている。土地は死んではいない。

  援助の手を差しのべてほしい。
  生活に必要なものだけは奪い去らないでほしい
  病んだ土地に生活する人のことを覚えていてほしい。
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子供たちのチェルノブイリ

Author:子供たちのチェルノブイリ
昔、こどもたちのチェルノブイリの作文集を選ぶボランティアをしました。この時の衝撃は今も心に残っています。
 連絡先
 ohanamoon@gmail.comまで

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