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僕の血の中のチェルノブイリ キリル・クリボーノス(男・15歳)

僕の血の中のチェルノブイリ キリル・クリボーノス(男・15歳)
 ネシャチ中等学校10年生 クリチェフ地区

 物理の授業の時だった。授業のテーマは「放射能照射の生物学的影響について」だ。「放射能」「線量(※)」「アイソトープ(※)」「キュリー」「セシウム」「ストロンチウム」「チェルノブイリ」などの用語が響きわたる。「生きた細胞は複雑なメカニズムであり、一部の小さな損傷によってもその活動を維持できない。また、ごく小さな変化でさえも細胞に深刻な損傷を与え、重大な病気を引き起こす可能性がある。放射能が高度に集中すると生きた組織は破壊される。致死量の線量でさえいかなる痛みも感じないという点が、放射能照射の危険性をさらに大きくしている」


※線量
 放射線の量

※アイソトープ
 同位体。同位元素。同じ原子であっても、中性子の数が違うため質量が違う原子をいう。また放射線を出す同位体の事を放射性同位元素という。

 ふと気がつけば、これらすべての用語を僕はずっと以前から知っている。そうだ、ずいぶん前なのだ。それは僕がまだ幼い頃に、するりと僕の意識に入り込み、僕の心のすみずみにまで浸透したのである。放射能は、目には見えないが人を殺すことができるほどの危険な悪魔の力を持っている。そしてそれは、親戚や知人の命、ふるさとの命を一気に抹殺できる力を持っているということも、僕にはよくわかっている。

 そして今、物理の授業で、それが正にその通りであるということをもう一度確認した。しかし、1986年6月当時は、僕には多くのことがわからなかった。7歳だったから理解できるわけもなかった。だが、僕には多くのことが永遠に忘れられないものになってしまった。当時僕は、母の故郷であるクラスノポリシーナのクリベリツク村に祖母や祖父と一緒に住んでいた。そこはソシ川のそばのすばらしいところだった。集落は大きな森に囲まれていた。そこには整然と並んだ背の高い松や、とうひの木があった。白樺もあった。僕はとくに松が好きだった。それは滑らかで、高く伸び、その幹は赤銅色の光沢をもっている。それ以前にはそのような木は、有名な画家の作品でしか見たことがなかった。森は数キロにわたって広がっている。その森のはずれには草がびっしり生え、花の香りがいっぱいの広大な緑の牧草地がある。そして、そのまた向こうに銀色に輝く川の帯が見える。僕は祖父と一緒に馬に乗ってそこへ行き、干し草を蓄えておいたり魚釣りをしたりした。祖父は岸のそばで水遊びをさせてくれたものだった。

 クリベリツク村は大きい。村の中心をつらぬく通りは1キロ半にもおよぶ。その通りにそって、きれいな新しい家が建ち並んでいる。その反対側には小さな公園があり、その隣には巨大なネコヤナギの木がある。祖母と祖父の家は大きくて明るい農家である。中庭もよく手入れされている。家の前には広い庭もあってそこにはリンゴ、ナシ、スモモ、スグリ、グズベリーの木がある。家の窓の下にはいろんな色がぬってあり、祖母のお気に入りだった。少し向こうにはイチゴの畝がある。そこは僕にとってどこよりも魅力的な場所だった。しかし、その年には祖父は僕をそこに行かせてくれなかった。イチゴには放射能があるから食べてはいけないと言う。僕は注意深く、赤く輝くみずみずしいイチゴを窓から見て、放射能を見つけようと努力した。でも、恐ろしいものなど何も見えなかった。祖母が家事に忙しいとき、僕はこっそりと畝に忍び寄った。わずかに熟れたイチゴを次々につみとって、大満足で口にほうり込んだ。祖母は僕を見つけて菜園から追い出し、いろんなことをののしった。どこかの誰かの発明を。原子力のことを。

 その日、僕は早く祖母に伝えたくて、友だちのところから急いで走って帰った。サーシャの家に知らないおじさんたちが大鎌を持ってやってきて、イチゴの畝を全部刈り取って行ってしまったのだ。彼らをうちの菜園に入れないように、祖母に頼んだ。しかし、おじさんたちはうちにやってきて、イチゴを根こそぎ大鎌で刈り集め、車に積んで行ってしまった。僕は泣いた。僕と一緒に祖母も泣いた。

 間もなく両親が僕を迎えに来て、家に連れ帰った。夏休みが始まったばかりだというのに、なぜ村を離れなければならないのかわからなかった。

 僕はもう3年も村に行っていない。祖父が僕の家に来て、村のことを話してくれた。馬のセーリイと牛のゾリカはもういない。家のそばの畝もなくなった。そこは2回除染され、表土が取り去られた。その後しばらくして、祖父と祖母は僕たちと一緒に住むことを決めた。クリベリツク村から最後の住人が出ていく日がきてしまったのだ。

 最低限必要なものだけが持ち出しを許可され、すでに集められていた。祖父の家には親戚が集まった。彼らはモギリョフ州ドリービン地区に引っ越すのだ。親戚の人々の目には苦悩と悲しみの色が濃かった。みんな泣いた。祖父は打ち捨てられる家の周りを歩いては涙を流し、祖父はしょんぼりと中庭をぶらついている。大祖国戦争のことを思い浮かべ、勇士に与えられた勲章を持ちながら。彼にとっても、敵がどこにいてなぜ逃げなければならないのか、理解できない様子だった。「どうしてここから逃げなきゃいけないんだ」と、祖父は誰にともなくぼう然とたずねた。

 魂が抜けたようになった祖母を車に乗せ、家や、まだそこに残る親戚、知人たちに別れを告げた。目の前の道には永遠に人の住まない故郷の村に通じている。平坦なアスファルト道を走ったが、一台の車にも出合わなかった。

 大きなノポリエニ村にさしかかった。人々が見捨てた家々が、空っぽの窓で私たちを見下ろしている。以前は、学校、マーケット、病院、薬局だった建物もある。だがどこにも人の姿はない。恐ろしさを感じた。

 捨てられた村の通りにはヨモギギク、いらくさ、ヨモギがびっしり生えていた。放射能に汚染された土地にはこれらの植物しか生えることができないようだ。地区の中心にあるチャウサにたどりついた。牧草地や牧場には、家畜が一匹も見当たらない。人はどこにもいず、気味の悪い静けさだけが支配している。鳥の鳴き声もしない。多分、鳥たちもどこかに移住してしまったのだろう。

 もう三年も祖母と祖父は僕たちといっしょに住んでいる。彼らの会話に最もよく出てくるのは「あそこでは」という言葉である。年寄りにはこのような宿命となじむのは困難なことだろうと思う。

 不吉なチェルノブイリの影が僕たち全員を包み込んでしまった。モギリョフではこの不幸を負わなかったところはない。唯一、クリチェフ地区だけが比較的安全な地帯だと考えられている。しかし、あくまで相対的な話にすぎない。この場所もすべて、放射能の「黒い斑点」の中にある。直接的な意味でも、比喩的な意味でも、チェルノブイリは僕の血の中にあると、僕はそう思い始めている。

 1991年初め、共和国保健省から派遣された医師団が僕たちの学校を訪れ、医療検診が実施された。多くの子どもに甲状腺肥大が見られた。僕にもこの病気が発見された。クリチェフ地区病院で1クールの治療を受けた。その年の夏、僕は「チェルノブイリの子どもたち基金」によって、黒海沿岸の保養地トゥアプセのピオネール・キャンプ「オルレーノック」に行くことができた。40日間、ベラルーシの様々なところから来た男の子、女の子たちとそこで休養した。そこで気分は良くなった。しかし、チェルノブイリによる故郷の不幸や災難で苦しんでいる人のことを思うと、痛みで胸が締めつけられる。

 僕の心の中から抗議と絶望の叫びが聞こえてくる。ついに,この地で生命がつきてしまわぬように、そして、今は死んでいる町や村が再び命を取り戻すように、あらゆる事をしなければならない……。まさにこれこそ、僕が物理の授業で考えたことだった。

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子供たちのチェルノブイリ

Author:子供たちのチェルノブイリ
昔、こどもたちのチェルノブイリの作文集を選ぶボランティアをしました。この時の衝撃は今も心に残っています。
 連絡先
 ohanamoon@gmail.comまで

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