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ベラルーシの運命は私の運命 オリガ・ゴンチャローワ(女・16歳)

ベラルーシの運命は私の運命 オリガ・ゴンチャローワ(女・16歳)
 第一八中等学校9年生 ボリソフ町

 1986年のある夜、静かな森、松林、青く染まってきた畑、花が咲きはじめた公園、家々、学校、病院の屋根に、チェルノブイリの灰が襲った。事故処理の戦いに、何千もの人が動員された。内務部につとめていた私の父も危険地区に派遣された。当時は、父がなぜこんなに長く家を空けたのか、理解できなかった。私はまだ一年生になったばかりだったからだ。父、つまり警察曹長アレクサンドル・ミハイロビッチ・ゴンチャロフが家に帰れなかった理由は、彼が持ち帰った証明書にこう記されていた。「ホイニキ内務部地区の30キロゾーンにおける任務を遂行していた」ためだと。

 父が知らないおじさんと帰ってきたことをよく覚えている。そのおじさんはしゃがれ声でミネラルウォーターをたくさん飲んだ。医者がそう助言したそうだ。彼は、ポレーシェの空になった村のこと、置いてきぼりにされ、どう猛なうなり声をあげながら森や野原をさまよっている家畜のこと、得体の知れない略奪者のことなどを話してくれた。

 2年後、父は再び私と母のもとを去った。今回はミンスクの病院であった。家の中ではチェルノブイリという言葉がよく話されるようになった。

 1989年、父に恐ろしい診断がくだされた。脊髄悪性腫瘍(※)。ミンスクの医者は手術を拒否した。そのため、父は彼の妹たちといっしょにモスクワに行った。入院したいと思ったからだ。モスクワでは、驚いたことに、「なぜ、ここに来たのか。私たちにはソ連全体の人を治療する義務はない」と言ったのである。


※ 脊髄悪性腫瘍
 脊髄管内に発生し、脊髄や神経根を圧迫するガン。

 父の手術をやってもらうために叔母たちは、屈辱に耐え、わいろを贈り、涙を流してやっと手術を認めてもらった。しかし、その手術も父を助けることはできず、症状はよくならなかった。

 親戚のひとが、外国での治療の可能性を探しはじめた。アメリカへの道は長く困難なものだった。けれども、アメリカのミシガン病院で、父は2か月間治療をうけることができた。

 私は夜も昼も、大西洋の向こうからの便りを待った。私は際限もなく、大人に「どうしてパパはこんなに長く家にいないの」と聞いてまわった。彼らは、チェルノブイリが彼をそこにひきとめているのだと答えた。

 長く待った再会であった。父は陽気になり、希望にあふれて帰ってきた。うまく体を動かせるようになっていて、私たちは父が春までには完治することを期待した。そして彼の話を、遠い国で会ってきた外国人のこと、思いやりのある親切な人々のことを、私たちはまるで魔法をかけられたかのように聞いていた。

 父を治療したアメリカの医者が、モスクワの医学界の権威に手紙を書き、そのなかで父の治療の継続を要請した。しかし、その有名なモスクワの医者は言った。「私に何をしてほしいのですか。あなたはもういけるところまで行ったじゃないですか」

 結局父は医療援助から見放されてしまったのだ。彼の具合が悪くなり、母は父のめんどうを見るために仕事をやめた。医務委員会が父を第一級の身体障害者であると認定したからだ。証明書には「チェルノブイリ原発事故の処理作業に伴う疾病」と書いてある。2年間、父は身体障害者であり、私たちは父の年金で生活した。

 1993年2月、父はまた入院した。主な病気にもう一つ病名がついた。肺炎である。夜も昼も医者が父のベッドにつきそっていた。生のための闘いはほぼ2か月続いたが、3月28日、父は死んだ。死の一時間前、医者が父に質問した。「気分はどうですか」「いいです」と父は答えた。誰も彼の愚痴を一度もきいたことがなかった。誰も彼の涙を見たことはなかった。

 こうして、チェルノブイリは私から父を奪ってしまった。そのうえ私の誕生日さえも。父は私が14歳になったちょうどその日に死んでしまった。どういうことなのだろう。この質問を権力者たちにぶつけたい。平和の時期なのに、なぜ、父を奪うのですかと。答えてください。私は父の温もりとささえが欲しい。父と一緒にお正月の前にモミの木の飾りつけをしたい。私の誕生日に、お祝いの食卓を一緒に飾りたい。なのに私は、父の墓にモミの木を飾らなければならないし、自分の誕生日を放棄しなければならない。その日は父の命日になってしまったのだから。数百万の人を放射能の地獄にたたきこんだ責任ある指導者、権威のある科学者は今、どこにいるのか。

 チェルノブイリ事故の立役者は、陰に隠れてしまった。今も、多くの人におしつけた大変な苦しみを思い出そうとせず、その責任をとろうともしない。チェルノブイリがもたらした災難に関わっているのは、きちんとした良心的な人ばかりではない。権力をもっている人の多くは、自分のことだけを考えている。たとえば、「国家に対する非常に重要な功績」なる理由で多くの年金を受け取れるような政令を考えついた。彼らがいったいどのような重要な仕事をやっているのだろう。ただ、狡猾な法律や決定をつくりあげているだけ。チェルノブイリの被災者は、役人どもが考えついた法律では生きてはいけない。ことに私の家族はそうである。

 母が父の面倒をみていた間は勤務継続期間になっていたが、元の職場に母の場所は残されてなかった。父の死後、母はやっと掃除婦の仕事を見つけた。この国の法律とはこんなものだ。

 「法律の父」(※)は、認識しているのだろうか。出生率が下がり、死亡率が急激にあがっていること。通りには労働している人よりも、よっぱらいの方がはるかに多いことを。


※法律の父
 法律に関する分野の仕事をしている人の中でも権力を持っている人。

 私は理解した。大人の生活には多くの嘘がある。私は、人間の嘘、残虐性、良心の無さを測ることのできる計測器を発明する学者があらわれることを期待している。そうなればようやく、賢く、親切で、謙虚で、思いやりがある人が政府の指導者になることだろう。

 父は彼の短い人生で、つらい時に助けてくれる多くのりっぱな人と出会った。それはベラルーシ労働組合の指導者ウラジーミル・ゴンチャリクさん、ベラルーシ赤十字総裁I・ブレンコフさん、内務省ボリソフ支部長A・シバルコさん、国際組織「チェルノブイリ同盟」副会長T・レーピンさん、「チェルノブイリの盾」協会副会長S・サゾンコフさん、国連ベラルーシ代表ゲンナージー・ブラフキンさん、他の多くの人々である。

 また、遠いアメリカの親切ですぐれた人々の名前も列挙する。ヤビプ・サジッチさん、ビューラー・アートンさん、カーチャ・マズーラさん、リンダ・ロジャースさん、ステファニー・ブレバーさんたちである。

 チェルノブイリは、私の生活だけをだめにしたのでないことはわかっている。私の祖国ベラルーシの大地の三分の一を奪い去った。傷ついた私の祖国国民から、私は切り離されるものではない。ベラルーシの苦痛は私の苦痛であり、ベラルーシの運命は私の運命なのである。


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子供たちのチェルノブイリ

Author:子供たちのチェルノブイリ
昔、こどもたちのチェルノブイリの作文集を選ぶボランティアをしました。この時の衝撃は今も心に残っています。
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 ohanamoon@gmail.comまで

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