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家のそばの花 ナターリア・ヤルモレンコ(女・16歳)

家のそばの花 ナターリア・ヤルモレンコ(女・16歳)
 ブラーギン中等学校11年生

  チェルノブイリの灰を
  塵のように
  風が吹き飛ばす
  どこに?
  私たちはこの世の
  黒い不幸のとりこだ
   ルイゴル・ボロドゥーリン

 あの、4月26日の夜がしだいに遠ざかっていく。プリピャチの町、その周りの小さな美しい村々、古代からの町チェルノブイリ、ポレーシェを、そして全世界を揺るがしたあの夜が・・・・・・。

 私たちは、今、ようやく、事故の被害や損害の実態を、全体的に知ることができるようになった。しかしそれは、有名な科学者や専門家の予測をはるかに超えるものとなってしまった。事故の直後、人々は黙り込み、事故について話すことは避けられた。そのため、正確な情報によって事故の真実を知ることは、一般の人々には不可能だった。本当の事態が隠され、人々は事故の影響を楽観的に考えていた。住民は、放射能汚染の危険性を知らされないまま放置され、貴重な時間が失われていったのである。

 私たち汚染地区の住民は、あさはかにもすべてを信じ、何事もなかったかのように生活していた。放射能の雨に濡れ、スタジアムではスポーツ大会が開かれ、戸外でピロシキを食べ、森を散歩し、大人たちは今までと同じように畑で働いた。けれども、あの年のメーデーに、私の両親は私たち兄妹をデモに連れて行かなかったことを覚えている。今考えてみれば、私たちが少しでも被曝しないように、という両親の直感がそうさせたのだろう。だが、放射能の雨を止めることは誰にもできなかった。

 あれは日曜日のこと、私が家の周りに花の苗を植えようとしていると、雨が降ってきた。私は、苗を植えるのに丁度いい雨だと思い、下着まで濡れながら全部の苗を植えてしまった。兄が私を手伝ってくれた。家に入って初めて気がついたのだが、私たちの服と靴に緑色の何かがびっしりとついている。兄はそれを、風と雨が運んできた植物の花粉にちがいないと言った。ところが、その時私たちにはわからなかったのだが、それは気味の悪いチェルノブイリの死の灰(※)だったのだ。その灰は、私の服だけではなく、私の体に、血液に、そして私の運命にまで入り込んできた。私は今16歳で、もう7年間も甲状腺の病気をかかえ、ゴメリ腫瘍(※)保健診療所に通っている。病気が悪化しないように、いつも薬を飲んでいなければならない。今が、人生のなかで一番楽しい時期のはずなのに、私の心は悲しみに沈んでいる。なぜ、私はこんなに苦しまなければならないのだろう。将来、私はどうなるのだろうか。チェルノブイリは、私から健康な体を奪った。そして、それだけでは足りないとでもいうように、私のふるさとをひきちぎり、私の親戚や知人を、遠く離れ離れに暮らさなければならないようにしてしまった。私たち一人一人の魂を耐えがたい苦しみと、片時も忘れることのできないふるさとへの思いが焦がしている。


※死の灰
 事故の時放出された、様々な放射性核種(放射線を放出する元素)や、放射能を帯びたチリ。

※腫瘍
 異常増殖をする細胞の集まり。悪性のものにガンなどがある。

 汚染されたプリピャチ川の水、毒された泉、古く美しい森、実り豊かだった畑。そこから永久に別れなければならなくなっても、私の魂は、ふるさとの井戸、納屋、なつかしい私の家にとどまっている。チェルノブイリは、冷酷な核戦争と全く同じように、子どもも大人も容赦なく次々に新しい犠牲者を生みだしている。原子力発電所の恩恵などほとんど受けなかったような普通の人々が、結局は事故の報いを受け、自らの命や健康、打ち壊された運命などの、最も重いつけを払わされている。放射能汚染地区に住んでいた多くの人々が、ふるさとに永久に別れを告げた。特に大人たちにとって、全く新しい土地に根を下ろすのがどんなに困難なことかを、私は、祖母やナージャおばさんの悲しい目の中に見る。彼女らは、住み慣れたラファロフ村を追われ、今では、ベラルーシの別々の場所に住まなければならなくなった。ラファロ村のきれいな花々、熟したリンゴや、柳の下の透き通った泉は、突然変異によって人の背丈よりも高くなった、気味の悪いヒレアザミ(※)におおいつくされてしまっている。

※ヒレアザミ
 きく科の植物。スカンジナビア半島を除くヨーロッパ全域に分布し、高地や荒野に生える多年草。

 もう一人の祖母、アレーナおばあちゃんが住んでいたクルグルードガ村も、今ではもう存在しないことを思うと私の心は痛む。彼女は、一生を過ごした生まれ故郷の村が、どんな恐ろしい運命に見舞われたか、知らずに死んだ。彼女の死後すぐに、クルグルードガ村は村ごと埋められてしまい、今では、すっかりさびた水揚げポンプの塔だけが、まるで死んだ集落の墓標のようにそびえている。

 私たちのブラーギン地区だけでも8つの村が消えてしまった。この世に存在しなくなった村々を追悼する儀式が行われた日のことを思い出すと、私の心臓は苦痛で止まりそうになり、涙がとめどなく流れる。こんなことが、この平和な時代に起こっていいものだろうか。けれども、これが現実なのだ。チェルノブイリは、私が子どもの時にはだして歩いた美しい小道を、私の両親の家を奪った。このことを私は決して許すことはできない。

 チェルノブイリは開いた傷のようなものである。事故による犠牲者は数え切れない。こんなつらい現実のなかで、親切な言葉や行動で私たちを支えてくれる人々の存在がどんなに大きな救いとなっていることだろう。彼らは、ベラルーシの子どもたちを療養のために外国に招待してくれている。不幸に国境はない。私たちの苦しみを黙って見ていることのできなかった世界中の人々が、私たちに援助の手を差し伸べてくれていることを、私は地に伏して感謝したい。

 私たちの国をおそった不幸が、地球に住むすべての人への警鐘となり、同じような不幸が決して繰り返されることのないよう祈りたい。

 地球上に生きる一人ひとりに、毎日太陽がやさしくほほえみかけ、それが放射能のにごったもやでくもってしまうことがありませんように。そして、未来が暗く、希望のないものに変えられてしまうことがありませんように。私たちの地球が永遠でありますように。

 ポレーシェに生命が消えてしまうはずがない、というかすかな希望が今でも私の心に燃えている。

 神様、お願いします。


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子供たちのチェルノブイリ

Author:子供たちのチェルノブイリ
昔、こどもたちのチェルノブイリの作文集を選ぶボランティアをしました。この時の衝撃は今も心に残っています。
 連絡先
 ohanamoon@gmail.comまで

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