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空が急に暗くなった・・・・・・ オリガ・アントノビッチ(女)

空が急に暗くなった・・・・・・ オリガ・アントノビッチ(女)
 第10中学校8年生 ゴメリ市

 4月26日は、すばらしく美しい日でした。

 あの日、私たち家族の友人が子どもを連れて、私の弟・サーシャの誕生日のお祝いにやってきました。私たちは長い時間、一緒に公園を散歩したり、ブランコで遊んだりして、みんなとても満足でした。すると突然、空が暗くなり、強い砂嵐が吹いてきたのです。私たちは急いで家の中へかけこみました。風は弟のパナマ帽(※)を吹き飛ばし、砂は目や鼻や髪に容赦なく吹きつけました。


※パナマ帽
 パナマソウの若葉を編んで作った帽子。軽くて柔らかい。

 メーデーの祭日です。

 木や草は威勢よく緑色を増し、栗の木はろうそくの炎のような形の芽をのぞかせていました。しかしその時、誰も危険がどこにでもあることを、まだ気づいてはいなかったのです。

 私の弟はその時まだ2歳だったので、なんでも口にしたがりました。石でも、小枝でも、木の葉でさえもそうです。弟には「だめよ!」といつも言っていました。

 その後、子どもたちは放射能から避難するために、よそへ送られました。しかし、そのときには、すでに遅かったのです。

 子どもたちは学校のクラスごとにまとまって避難させられました。そして、子どもたちには教師や親が付きそいました。私の祖母は低学年のクラスの教師をしていたので、母と一緒に見送りに行きました。その時、駅にはあふれるばかりの人々が集まっていたのを覚えています。

 親たちは一方にならび、子どもたちと先生は列車の側に立っていました。みんなが泣き、お互いに抱き合い、それはもう再び会うことができないかのような光景でした。

 祖母が自分のクラスの子と一緒にひと夏を過ごしたのは、北オセチアの地でした。祖母は今でもそこでの出来事を話してくれます。全く知らない人々が出迎えてくれ、手を取って列車から降ろし、家に招待し、果物や花を届けてくれさえもしたそうです。祖母は今でも北オセチアの教師たちと文通しています。今、北オセチアでは戦争が起こっており、人々はそこでも苦しんでいるんです。

 5月の半ばだったと思いますが、私は母と弟と一緒にモスクワへ行きました。祖父の知人から電話があり「そちらは大変でしょう。こちらに来ませんか」という誘いがあったのです。

 私たちはそれほど大きくない二部屋あるアパートの一室に住むことになりました。近所の人々は親切でとても思いやりがありました。

 父は私たちと一緒にモスクワへは行きませんでした。父は警察の将校です。彼は30キロゾーンに派遣され、住民の避難の手助けをしました。ゴメリに戻ったのは86年8月です。

 私たちはチェルノブイリの災害から逃れようとしましたが、それは私たちを逃しはしませんでした。

 チェルノブイリ。私はこの言葉に苦い味を感じる。それは歯にはさまり、舌の上でころがり、のどにつかえる。

 チェルノブイリ。お前は家族の喜びを台なしにし、母の明るい笑い声を奪い、母の瞳から喜びの色を消し去ってしまった。

 お母さん。私はあなたの本当の幸せをもう見ることはないでしょう。あの日からです。ミンスクの放射線医学センターで、弟が甲状腺(※)を病んでいることを知らされ、泣きくずれてしまった。どうしようもない不安が両親の心に居座った。それから弟の病気を治すために、地獄の苦しみを味わうことになるのです。母は自分の手で弟を手術台に運びました。2回の手術、長い苦しい治療、全面的な検査が・・・・・・。


※甲状腺
 前頚部での頭と気管の移行部にある蝶形の内分泌線。ヨード含有率の高い甲状腺ホルモンを分泌し、生体の代謝を調節している。

 私の弟は、チェルノブイリの最初の犠牲者の一人になってしまいました。ベラルーシ全体ではどのくらいいるのでしょうか。

 町に「悲運の子どもたち」という組織がつくられました。血液や甲状腺の病気の子ども、チェルノブイリ原発の事故で苦しむ子どもをもった家族が手を結んでできたのです。ドイツ、イタリア、オーストリア、その他の国の普通の人々が、子どもたちへの援助をしてくれています。彼らはその子どもたちを家庭に招き、暖かく、優しくもてなしてくれています。

 サーシャが病気の子どもたちと一緒にドイツにいった時、私もついていったことがあります。そのグループの中にカーチャという明るく感じのいい少女がいました。彼女の病気が重いとは誰も信じませんでした。春にドイツに一緒に行ったのですが、秋にはカーチャが死んでしまったことを知りました。

 サーシャの机の上には折り鶴がのっています。ミンスクの病院を訪問した日本の医者がサーシャにくれたものです。遠いヒロシマの女の子のことを聞いて、サーシャが泣き出したことを覚えています。しかし、彼女も不幸から逃れることはできませんでした。そして、折り鶴も最後まで折ることは。

 ヒロシマ、チェルノブイリ・・・・・・。私たちは、こんなに小さい星に生きているのに。

 この恐ろしい悲劇の灰は、決して心の中で冷たくなることはない。

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子供たちのチェルノブイリ

Author:子供たちのチェルノブイリ
昔、こどもたちのチェルノブイリの作文集を選ぶボランティアをしました。この時の衝撃は今も心に残っています。
 連絡先
 ohanamoon@gmail.comまで

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