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チェルノブイリの黄色い砂 エレーナ・ドロッジャ(女・16歳)

チェルノブイリの黄色い砂 エレーナ・ドロッジャ(女・16歳)
 アタレズ中等学校10年生 スタルブツオフ地区

 暗黒の言葉が まるで黒い太陽のように
 冷酷に ベラルーシの大空に のぼった。
 それは あたかも黒い日食のごとくに
 ものみなを黒く汚しつくした。
 緑の草も 澄んだ水も 青い空も。
   ヤンカ・シパコフ

 私は16歳です。チェルノブイリの悲劇のなかを生き続けるすべての人と同じように、私の時間も二つに引き裂かれてしまったようです。1996年4月26日以前、そしてそのあとに。

 私たちはチェルノブイリからそう遠くない所に住んでいました。母はよく原発の町からおいしいものを買ってきては、私たちに、電気を供給してくれる原発の話をしてくれました。

 ある日、村に発電所で爆発があったといううわさが広まりました。この村からチェルノブイリ原発に働きに行っている人の口からです。でも、誰もそれが大変なこととは思いませんでした。

 次の日、ソホーズ(※)の競技場で、地区対抗サッカー大会が開かれました。私は両親と兄と一緒に、一日のほとんどをそこで過ごしました。突然雨が降り出しました。私たちはその雨を手のひらで受けながらはしゃぎ回っていたのです。その生暖かい雨が何を含んだものなのかを全く知らずに。そして待ちに待ったメーデーの祝日がやってきました。競技場は音楽や歌が流れ、大変なにぎわいでした。人々は、メーデーを祝い、緑あふれる季節を楽しんでいました。


※ソホーズ
 国営農場。コルホーズは集団農場。

 けれどついに不安が村を襲ったのです。母はとても心配そうに、昼間ちょっとだけ家に寄り、私たちに外に出ないようにと告げました。プリピチャに向かう国道を、何日も何日もいろいろな車の列が延々と続いていました。

 5月6日になり、親戚の人が来て、兄と私たちを連れて帰りました。それまでは、私は親と離れて暮らしたことが一度もなかったので、二日もたつと、もう帰りたくてたまらなくなりました。「ストレリチェボに帰ってはいけない、両親は今とても忙しいんだから。でも心配することは何もないよ」と説明されました。私はその時はまだ、何か月も家に帰れなくなったり、ボロブリャニの病院に入院しなければならなくなるなんて、そしてボリソフ地区のピオネールキャンプ(※)に行くことになるなんて、想像もできませんでした。


※ピオネール
 少年・少女の組織

 それでも私は、8月の終わりに自分の村に戻ることができました。本当に嬉しかった。でもここで一体何が起こったのか、不思議でたまりませんでした。景色は去年と全く変わらず、とても美しかった。ただ、菜園ではなぜか花が刈りとられていました。学校の周りもすっかり居心地が悪くなっていました。植え込みや花壇はもう元の姿はなく、黄色い砂に覆われていました。まもなく私たちは、毎日12時間学校にいなければならなくなりました。道路や競技場や森は危険地帯とわかったからです。私たちが放射能に被ばくしないようにと、政府が出した命令だったのです。

 そしてまた、旅が始まりました。私たち低学年の子どもは、アナパに療養に行くことになったのです。私たちのために南部の方から知らない先生がきました。とても親切で優しい女の先生たちで、黒海の話や、私たちがこれから行くサナトリウムが、とても美しくて素敵な所ということを教えてくれました。でも私たちはそれどころではなかったのです。両親と離れ、心の中は心配や不安でいっぱいでした。今すぐに引き返したいと、心いっぱい願っていました。

 黒海の海岸で過ごし、勉強したり遠足に出かけたりしました。でも心の中は故郷のことが心配で、毎日寂しくてたまりませんでした。そんなある日、母が訪ねてきてくれたのです。母を見つけ駆け出した時の喜びは、一生涯忘れることはないでしょう。私だけではなく、私たちの学校の生徒もみんな駆けてきました。みんな、親戚や知人のことを聞きたかったのです。母はみんなにキャンディを配りました。みんな自分のお母さんからもらったみたいに喜んでいました。私は最高に幸せでした。

 でも母は、すぐ村に戻らなければなりませんでした。たいへんな仕事が待っているからです。母は村のコルホーズの責任者をしていました。母は微笑みながら、私に元気を出すようにと言いました。でもその母自身も、私以上につらそうに見えました。

 1989年、兄がひどい病気になりました。両親は引っ越すことを考え始めました。両親が私たちに引っ越しを告げた時のことは、決して忘れられません。兄は何度も何度も両親に頼みました。「ママ、パパ、どこにも行かないで。僕はすぐ良くなるんだから。もしみんなが引っ越しても、僕ここでおじいちゃんといっしょに暮らす」と。私たちは引っ越しをやめました。兄はずっと病気で、何度も入院を繰り返しました。両親も病気がちになりました。

 ストレリチェボでは、石造り二階建ての、新しい街の建設が続いていました。でも誰がそこに住むのでしょうか。以前母は、「ここは安全だ」と言っていた政府の幹部や科学者を無条件に信用していましたが、今それに疑問を抱きはじめ、絶望と不安の表情で、「チェルノブイリゾーン(※)で暮らすのは危険だ」と訴える人の声に耳を傾けるようになりました。


※チェルノブイリゾーン
 チェルノブイリ原発事故によって、半径30キロの住民13万5千人が避難した。ゾーンから一歩外に出ると、そこは安全といわれたが、3百キロ離れたところでもひどい汚染地帯が見られる。30キロゾーン。

 「ゴメリスカヤ・プラウダ」や「家族」などの新聞に、母の論文が載りました。そして、ミンスクで開かれた子ども基金の総会で母が行った「チェルノブイリの子どもたち」と題する演説がラジオで流されました。それは、自分の子どもだけでなく、チェルノブイリの放射能によって命と健康が冒されている全ての子どもたちのことを心配する、母親の魂の叫びでした。

 1990年4月の頃、3か月にわたって、私の学校の生徒は全員、ゲレンジックに連れてこられていました。そこで私は、チェルノブイリの悲劇をテーマにしたテレマラソン(※)のテレビ番組に出演していた母を見て、とても誇りに思いました。母はそこでもソトレリチェボの学校の生徒たちが直面している、困難で危険な状況を語りました。放射能の値が15から40キュリー(※)以上もあるのです。チェルノブイリの事故は、戦争に匹敵するほどの大惨事なのです。私は長い時間この番組を一生懸命見ました。


※テレマラソン
 長時間のチャリティー番組

※キュリー
 放射性物質の量(放射能の強さ)を表す単位。1秒間に370億個の原子核が崩壊して放射線を出す放射能の強さが1キュリー。新しい国際単位ではベクレルを用いる。

 私がゲレンジックから帰った先は、故郷の村ではなくて、新しい土地、ソトルフシチナでした。私たちの新しい家は、村のはずれの、森のそばにありました。周りのもの全てが知らないものばかりで、なじめませんでした。

 気づかないうちに、夏が終わっていました。9月1日に新学年が始まります。7年生になった私は、新しい学校で泣きじゃくりました。先生やクラスメートたちは、私をなぐさめようと努力してくれました。彼らは、私が故郷の学校や友だちから離れ、とても寂しく泣いていることを理解できたからです。

 でも時がたち、私たちは少しずつ、新しい生活に慣れてきました。両親はここの名前を、間違えて前の地名で言うこともなくなりました。私はここで新しい友だちができました。

 私たちが苦しかったとき、優しいことばや思いやりで私たちを助けてくれ、今も、苦しいときも楽しいときも一緒にいてくれる、この村の人たちに感謝しています。両親も、一緒に働いている人たちが、とても親切にしてくれるといいます。でも、夢の中に出てくるのは、アターレジではなく、ソトレリチェボです。故郷は、なにものにも替えがたいものなのです。

 今これを書きながら、私の目には涙があふれています。70になる私のおばあちゃんが紙切れに書いた言葉を思い出します。「本当のことを言うと、家に帰りたい」と。

 誰がおばあちゃんを救ってくれるのでしょうか。誰が、ゆがめられた運命を背負わされた何千もの人々を救うのでしょうか。誰が、数百年も元にもどることのない放射能汚染という病におかされたこの大地を救うのでしょうか。

 母は小さいころから私たち兄弟に、正直な人になるようにと教えてきました。ベラルーシの国民が国家の重要ポストに選び、私たちの運命を託してきた人たちは、親からどんな教育を受けたのでしょうか。誰が彼らを選んだのでしょうか。誰が彼らに、嘘をつき真実を隠す権利を与えたのでしょうか。私は彼らの名前を知らないから、ここに挙げることはできません。でも、高い地位はないけれど善良な心を持っていて、困難な現実のなかで自分の意志で義務を果たしている科学者や医者や文学者の名前を挙げることはできます。

 私たちの学校にきた、作家のウラジーミル・リープスキーさんとワシーリ・ヤコベンコさんに感謝します。私たちは彼らと会って、自分の運命が、とても大切な意味を持っていることを知りました。そして彼らの論文を新聞で読み、子どもながらに、彼らがあれほど情熱的に書くのは、私たちの運命が彼らをふるい立たせたからだと感じました。

 悲劇のホイニキの大地が、ボリス・サチェンコ、ミコラ・メトリッツキーを育てたのです。現在の彼らの作品には、故郷の苦痛が描かれています。放射能は、イワン・シャミャーキンの故郷もよけては通りませんでした。彼は、ポレーシェ(※)の人々の性格や習慣、こまごまとしたことまでよく知りつくしているので、チェルノブイリの悲劇を書かずにはおれなかったのです。小説「不吉な星」を家族全員で読みました。父は「すべて本当のことだ。フィクションではなくて、ドキュメンタリー作品だ。まるで私が、不幸の始まりの日々のできごとを彼に話したみたいだ」と言いました。


※ポレーシェ
 プリピャチ川流域の広大な湿地帯。

 今私たちに書く順番が回ってきました。忘れてはならないことを書きましょう。将来のベラルーシのために、ベラルーシ国民の繁栄のために。そしていつかまた大きな災難が国民をおそったとき、誰も「なんでもなかった」とか「放射能では死なないし、病気にもならない」などと言えないように。忘れてはならないのです。こんなことは、もう二度とくりかえされてはならないのです。
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子供たちのチェルノブイリ

Author:子供たちのチェルノブイリ
昔、こどもたちのチェルノブイリの作文集を選ぶボランティアをしました。この時の衝撃は今も心に残っています。
 連絡先
 ohanamoon@gmail.comまで

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