スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

わたしたちの涙で雪だるまが溶けた イーゴリ・マローズ(男)

わたしたちの涙で雪だるまが溶けた イーゴリ・マローズ(男)
 第四中等学校11年生 シュクロフ町

 祖母の住むマリノフカが汚染のひどいところだということを、当時はまだ誰も知らなかった。そこにはずっと昔から、野生のナシの木があった。いつごろからあったのか誰も知らなかったが、それは祖母の庭に生えていた。

 その夏、マリノフカには、すでに放射能が舞い降りていた。しかし人々は、これから恐ろしい不幸が起こるなどと、思ってもみなかった。

 その木は、庭のほとんど三分の一を日陰にするので、村の人たちは何度もこの木を切り倒すように祖母に助言した。しかしその都度、祖母は断り、こう言った。「そんなことしちゃだめなんだよ。この昔、この木の下に、罪のない女の子の血が流されたんだから」と。

 遠い昔の農奴の悲しい死の伝説を知っている人はたくさんいたけれど、みんなそれを本当のことだと信じていたわけではない。だけど、私の祖母は信じていた。この驚くべき古木は、祖母にとっては聖なるものなのである。

 僕のいとこのナジェージュダは、このナシの木が好きだった。その年の夏休みにも彼女は祖母のところにやってきた。その夏は、蒸し暑く、沈んだ雰囲気だった。でもおばあちゃんのいるマリノフカは、とても美しかったし、広々としていた。ナジェージュダは夏中、祖母の菜園に滞在し、種蒔きなどの手伝いをした。また彼女は森へ行って、イチゴやキノコを集めたり、近くの川で日光浴や水遊びもしたりもした。

 ある日、地区のなんだかえらい人が来て、「村の土や水や空気はとてもきれいであります。ここは安心して住んでいただきたい」と言って帰って行った。だから村人たちは安心して住み続けた。

 大きく枝を張り、葉を茂らせたナシの木の下で、ナジェージュダは水彩画を描いた。彼女は画家になることを夢見て、美術研究所で勉強していた。彼女はその夏、とても美しくなった。15歳だった。少女からレディーになった。彼女は日記を書きはじめ、そこに秘密の想いや印象を書き残した。しかし、この日記には、その後腫瘍専門病院での苦しみが書かれることになる。彼女の日記に書かれたことは全て、言葉で言い表せないほど、僕を揺り動かした。とりわけ、最後の10日間分の内容はそうだった。何という希望、生への渇望、人間的な尊厳だろうか。何という悲劇、取り返しのつかないわざわいを感じていたのだろうか。今、この日記は僕の手元にある。僕はこの勇気と真の崇高さが記されたナジェージュダの日記の、最後の数日分をここに紹介したい。

3月1日
 第12号室の男の子たちが、春のお祝いを言いにやってきた。病室には、もうすぐ春が来るというのに、不幸な私や男の子たちがいた。通りにはまだ雪が残っていて、彼らは雪だるまをつくり、病院の大きなお盆にのせて私たちの病棟に持ってきてくれた。雪だるまはすばらしかった。それをつくったのは、トーリャに違いない。彼は彫刻家を夢見ていて、いつも粘土で何かをつくっているから。彼は化学治療のあと、ベッドから起きることを今日許されたばかりだ。トーリャは、みんなの気分を盛り上げようとしたのだ。「だって、春が始まったんだから!」その雪だるまのそばにはメッセージがあった。「女の子たちへ。みなさんにとって最後の雪です!」と。「なぜ最後なの? 本当に最後なの?」私たちは、ひとりまたひとりと泣きながらたずねた。

 雪だるまは少しずつ溶けた。それは私たちの涙で溶けてしまったように思えた。

3月2日
 今日、おばあちゃんが来てくれた。大好きな、大切なおばあちゃんだ。彼女は私の病気の原因は自分にあると思っている。おばあちゃんに大きなナシの木の伝説を話してとお願いした。その大木の木の下で空想するのが好きだった。だけど、そこはチェルノブイリの事故のあとは大きな原子炉になったみたいだった。

 絵に描くためにおばあちゃんの話を細かいところまで漏らさないように聞いた。おばあちゃんは静かにおだやかに話しはじめた。

 「昔々、農奴制があったころのことでした。金持ちの領主が、貧しいけれど美しい娘を好きになりました。そして力づくで娘を城に連れて来たのです。マリイカは ― この娘の名前ですが ― ずーっと、城の中で泣き悲しんでいました。ある日、この悲しい娘は、鍵番の青年の手助けで、彼と一緒に領主のもとから逃げることができました。しかし、領主の使用人たちは、隠れるところのない草原に彼らを追い詰めました。無慈悲な領主は激怒して叫びました。『お前が俺のものにならないというのなら、誰のものでもなくしてやる』と。領主はサーベルで娘に切りつけると、その不幸な逃亡者は大地に崩れるようにして倒れました。その罪のないマリイカの血が流れたところに、美しい野生のナシの木が生えたと言われています。……これが私がずっとナシの木を守ってきた理由なのよ。でも今はね、ナジェージュダちゃん、もうこのナシの木はなくなってしまったの。どこからかクレーン車が来て、このナシの木を根っこから引き抜いてしまったの。ナシの木のあったところには、セメントが流し込まれ、何かのマークがつけられたの。
 もうみんな村から出ていってしまったわ。私たちのマリノフカは、空っぽになってしまったの。死んでしまったのよ」

 おばあちゃんが帰る時、私には頼みたかったことがあった。私が死んだら、墓地に埋めないで欲しい。それが心配だ。美しい草原か白樺林がいい。お墓のそばにはリンゴかナシの木を植えて欲しい。でもそんなことを考えるのはいやだ! 草にはなりたくない。生きなければならない! 生き続ける! 病気に打ち克つ力が充分にある。そう感じる!

3月3日
 できるかぎり痛みをこらえている。おばあちゃんの肖像画が完成した。おかあさんが、この絵を見て感動し、「ナジェージュダ、お前にはすばらしい才能があるんだね!」と言った。主治医のタチアナ先生は、私に勇気があったから治療も成功したと言ってくれた。元気づけられた。神様お願いします。持ちこたえ、生き続ける力をお与えください。お願いします。

3月4日
 医者はよくなっているというのに、どうして体力が落ちているのだろう。どうして急に病棟がさわがしくなったのだろう。点滴のあと、この日記をつけている。どうしてほとんど良くなっていないのだろう。同じ病室の友だち、ガーリャ、ビーカ、ジーマが私を見るとき、何か悲しそうな目をする。今まで以上にひどく同情してくれているのがわかる。彼女たちも同じような境遇なのに。わかった、誰も人間の苦悩を見たくないからだ。だがどうしようもない。ここの病棟は満員になっている。タチアナ先生の話では3年前には、入院患者はほとんどいなかったそうだ。これらのことは全て、チェルノブイリ事故によるものなのだ。この不幸をもたらした犯人をここに連れて来て、この病棟にしばらくいさせたいものだ。自分のやったことの結果を見せつけたい。

 アンナ・アフマートバを読み始めた。「私は最後のときを生きている」というテーマで絵を描きたくなった。

3月5日
 10号室のワーニャちゃんが死んだ。大きな青い目をした金髪の男の子で、病棟のみんなから愛されていた。まだ7歳だった。彼はここに来る前に、ドイツに治療に行ったこともある。昨日、ワーニャちゃんは自分の誕生日のお祝いだからと、全員にキャラメルを配ってくれた。私たちもお祝いに病室に行ったら、とても喜んでくれたのに。神様、あなたはなぜ、みんなに平等に親切ではないのですか。どうしてワーニャちゃんが……。何の罪もないのに。

3月6日
 どんな痛みでも我慢できるようになった。おかあさんがその方法を教えてくれた。私の胸に、病院の入口に立ちつくす母親たちの姿を焼きつけることを考えついた。母親たちは、私たちより苦しんでいる。彼女たちを見ていると、我慢しなければならないと思い、希望を持たなければと思う。

 不幸をともにする仲間が、どんなに痛みと闘っているかを見たことがある。それは15歳のボーバのことだ。母親は医者のところに走り、医者は彼に痛み止めの注射をする。薬の効く間だけ苦しみのうめきは止まり、泣き声はやむ。今後この少年はどうなるのだろう。私たちはどうなるのだろう。

 私が思うには、チェルノブイリの惨事は、人間の理解をこえたもののひとつである。これは人間存在の合理性をおびやかし、その信頼を無理矢理奪い去るものにほかならない。

3月7日
 今日、デンマークの人道的支援組織の人が来た。この病室にも、ふわっとした金髪の女性が入ってきた。とても美しく、魅力的な人だった。私のそばに座り頭をなでると、彼女の目に涙があふれてきた。通訳の人の話では、数年前、彼女のひとり娘が交通事故で突然亡くなったそうである。この外国のお客さんは、身につけていた十字架のネックレスをはずし、私の首にかけてくれた。子どもに対する純粋な愛は世界中の母親、みな同じであることを感じた。

3月8日
 今日は祝日。机には、オレンジ、バナナ、ミモザ、アカシアの花束が置いてある。それには、詩が書いてある美しい絵はがきが添えてあった。

  望みは何かというと
  あなたがよくなりますように
  あなたに太陽が輝きますように
  あなたの心が愛されますように
  あなたのすべての災難と不幸が
  勝利にかわりますように

 私たちはいつも健康と幸福を望んでいる。ただ勝利だけを。恐ろしい病気に打ち克とう。幸福はあなたのものだ。

 病院の講堂で国際婦人デーの集会が開かれた。トーリャと一緒に踊った。でもそれは少しだけ。すぐ目がまわりはじめるからだ。友だちが私たちは美しいペアだと言ってくれた。

3月9日
 おとぎ話は終わった。再び悪くなった。こんなにひどくなったことは今までなかった。朝から虚脱感がひどく、けいれんが止まらないが、薬はもう効かなくなった。最も恐ろしいことは、髪だ。髪が束で抜ける。私の頭からなくなっていく。

 回診のときにタチアナ先生は、治療はもう完了したので、あとは自宅で体力を回復させなさいと言った。私は先生の目をのぞき込んだ。そして理解した。全てのことを!

3月10日
 おかあさんは私の好きなコートを持ってきてくれた。それを着れば私だってまだこんなにかわいいのに! 私はやっと歩いて、病棟のみんなにわかれを告げてまわった。さようなら、みんな、私を忘れないでね! 私もみんなのことを忘れないから!

 ナジェージュダは3月の終わりに死んだ。日記の最後はラテン語の「Vixi(生きた)」で結んであった。彼女は自分の人生で何ができたのだろうか。彼女は何を残したのだろうか。何枚かの風景画とスケッチと肖像画。それと大地に残る輝かしい足跡だ。

 みなさん、子どもたちの無言の叫びを聞いてください。援助に来てください。神も、悪魔もいらない。ただ人間の理性とやさしい心だけが、痛み、苦しみ抜いている大地を救うことができるのです。みんなで一緒になって初めて、チェルノブイリの恐ろしい被害を克服することができるのです。


スポンサーサイト

エコロジーの鐘が鳴る ナターリア・ヤスケービッチ(女)

エコロジーの鐘が鳴る ナターリア・ヤスケービッチ(女)
 第二中等学校10年生 ルニネツ町

 核による死が、花咲く地球の上に覆いかぶさっているなどと、一体誰が考えられるだろう。チェルノブイリ事故を人類への最終警告であると評したのは、アメリカの科学者ゲイルである。「ニガヨモギの星」に焼かれた人にとって、それに毒された水や空気で生活せざるをえなくなった人にとって、それは既に警告ではなく、苛酷な現実になってしまっている。チェルノブイリの悲劇は、時がたつにつれその強烈さを少しは失うことがあっても、他の不幸のように完全に記憶から消えてしまうものではない。「時は薬だ。時は相いれないもの同士を歩み寄らせる」と人は言う。だが本当にいつもそうだろうか。

 チェルノブイリの重荷を背負うことは、私たちにはきつすぎる。大惨事の日々から時がたつにつれて、事故の被害によって苦しむ人がますます多くなっている。「こんなことは以前にはなかった」そうだ。なかった。以前は母と一緒に森へ行き、キノコをとって火であぶり、塩をかけ、酢漬けにしたものだ。私のふるさとは、昔からキノコの里と言われていた。私は今でもヤマドリダケ、アンズダケ、ヤマイグチなどのいろいろなキノコの匂いや味を覚えている。だがそれもただの記憶となってしまった。科学者(放射能の安全性についての専門家)たちは、ほかの植物にくらべ、キノコは放射能の蓄積量が多いと警告している。たとえキノコを食べなくても、放射能はどんな食べ物にも含まれており口にしなければならない。いったい何を飲み、何を食べろというのだろうか。

 ある日、シュクリャロフスキーの詩が目にとまった。彼はベラルーシの出身で、放射性ストロンチウムや放射性セシウムで汚染されたプリピャチ川に何度となく行ったときのことを詩に書いた。

  庭にリンゴが落ちる音がひびきわたる
  原子の露の上を歩く
  リンゴや白いキノコのわきを
  さっさと通り過ぎる
  かがみもせず
  花や草に憎しみを抱きながら

 この詩を読むと、鳥肌が立つ。『花や草』という言葉は、人間の行い、つまりわれわれをチェルノブイリ事故に導いた社会の構造を表している。ある日、テレビで原子力エネルギー研究の指導的立場の人の演説を聞いたことがある。彼はこう言った。「科学には犠牲がつきものだ、その犠牲の中には、人間までもが含まれるのだ」と。ドストエフスキーが言ったように、赤ちゃんを殺すような人間が平気で暮らしているような社会の中に、調和などありえない。この科学者は野蛮な人間だと思う。私たちは科学のとりこにはならない。かといって無知のままでいるわけでもない。人類だけではなく、全ての生命に対して心を寄せるべきである。

 人のもみあげに白いものが現われたり、一晩中眠れないというのは、単に気分が滅入っているからではない。衰弱し、病気になっているのだ。私は楽観主義者ではない。全く反対に、何事にも暗たんたる思いを持つ悲観主義者なのである。痛みで見が覚めたとき、目に見えない獣の手で首を絞められるとき、鼻血が出るとき、絶望で泣きたくなるときには、特にこのような気分になる。このような『とき』を並べるだけでもう苦しくなり、我慢も限界に達する。しかし、私は我慢強くなった。母にこれ以上心配をかけたくない。母が私を見ているときの苦しみようは、とても表現できない。医者はもう私を治療できないでいる。そして、きまってこう言う。治療に「必要な薬がない」と。

 人が死ぬ。あの家、この家から、続々と死者が出ていると聞く。真冬の路上の蝶のように死んでいく。これは全部放射能のせいなにか、正確にはわからない。だが私が思うに、犯人はやはり放射能だ。本当にいまわしい放射能は親戚や知人、あるいは知らない人までも、次々に墓場に送っている。

 私の祖父が話していた。戦後、人々は生きるために一生懸命働いた。子どもや孫たちは、今、占領中は占領直後よりもっと恐ろしい時代に生きている。草原を走り回ることもできず、川で泳ぐこともできず、日光浴もできないと。祖父は放射能を恐れていない。「わしらは放射能を吸い、放射能を食べるさ。放射能はどこにでもあるんだ。年寄りにはどうってことはない。もう充分生きてきたし、いいことも悪いこともすべて体験済みさ。だけど、お前たちはどうなるのかね」

 エコロジーの鐘が鳴っている。苦痛と不安の鐘の音だ。苦痛とは大量の酸性雨がしみ込んだ私たちの大地であり、化学物質によって汚染された川であり、伐採されつくした森林等々である。不安とは次の世代のことである。鐘の音が鳴き、うめいている。その音が訴えるのは、チェルノブイリのことだ。この悲劇は全世界を揺り動かした。チェルノブイリの教訓は、徹底的に解明されなければならない。そうしてはじめて、そのようなことが二度と起きないように期待できるのである。1986年に「落ちてきた」ニガヨモギの星はいまだに悪業を続けている。人間は、自分たちが自然の一部であると認識しないかぎり、いつでもどこでも、このようなことが起こり続ける。自然への感謝がなければ、人は自然とともに滅びるだろう。今日、まだこのことを理解できていない人がいることは、大変残念である。

 私の今の希望は、ふるさとの町を出て、放射能のないところに住むことだ。私の姉のスベトラーナはブレスト音楽学校を卒業する。幸せなことに、彼女は私みたいに病気をしていない。

 この作文をベラルーシの偉大な詩人ヤンカ・クパーラの詩で終わりにしたい。

  祖父の大地を返してくれ 全能の神よ
  あなたが 天空と大地の皇帝であるならば


小麦の種をまくのが夢だ アレクセイ・ヒリコ(男)

小麦の種をまくのが夢だ アレクセイ・ヒリコ(男)
 ジリチ村 キーロフ地区

 不幸は巨大な鳥のように黒い翼をこの土地の上に広げ、次の犠牲者を探している。僕は最近までは、新聞やテレビや、そして母や祖母や先生の語る悲しい話からチェルノブイリの悲劇について知るだけだった。

 ここジリチはとても美しいところである。ここにはブルゴク領主の旧屋敷が、17世紀の記念建造物として残っている。村は巨大な菩提樹の古木や、堂々としたカシの木や、魔法使いのようなカエデの並木に囲まれている。ソフホーズの公園には、木の葉が騒がしく音を立てている。村では春になると明るいピンクの花が辺りに咲き乱れ、いい香りでいっぱいになる。花々は人々を喜ばせ、楽しませる。ここでは、夏はもっと美しい。小さなドバスナ川が、心地よい音を立てて僕たちのそばを流れている。僕はその川のひんやりと住んだ水で泳ぎ、川辺で日光浴をし、友だちと遊ぶのが大好きだ。特に洗礼者ヨハネ祭の日はとても楽しい。草原には大きな火がたかれ、少女たちは川面に花輪を流し、おばあさんたちは心のこもった歌を歌う。

 僕には父、母、兄弟姉妹がいる。僕はみんなが大好きだ。一番下のレーナが生まれたのは1993年の夏だった。彼女はとてもきれいで可愛い女の子だった。僕はよくレーナと遊び、彼女の子守りをした。だが、レーナは死んでしまった。まだ、たったの生後5か月だった。

 僕の家には不幸が居着いてしまった。父と兄たちの目は悲しみに染まってしまった。母が苦しみをこらえ、僕たちに涙を見せないようにしているのを見ると僕はたまらなくなる。母は穏やかで優しく、働き者だった。以前は楽天的で明るく、僕たちに冗談ばかり言っていた。

 僕には分かっている。僕たちの不幸の原因はチェルノブイリだ。レーナの病気は脳水腫(※)だと、母はボブイスクの病院で告げられた。僕たちはレーナのために小さな墓を作り、そのそばにモミの木を植えた。僕たちは度々そこへ行き、僕たちが彼女のことでいかに苦しんだか、そして、彼女をいかに愛しているかを話すのだ。


※脳水腫
 頭蓋内に異常に多量の髄液がたまって、頭が大きくなる病気。水頭症のこと。

 最近、僕の学校で健康診断が行われた。僕も検診を受け、甲状腺に異常があるといわれた。医療相談を受けるためにモギリョフの病院に送られた。健康診断の結果は正しかった。甲状腺肥大の第二期だった。何人かの友だちは第三期だと診断された。僕はよく頭痛がする。目も悪くなり、眼鏡をかけることになった。放射能の影響を低くするために、クルミ、オレンジ、バナナ、パイナップルなど外国の果物をとるように言われる。でも、そんなものがどこで手に入れられるというのか。

 2年前、僕たちのクラスは療養のためクリミヤに行った。僕はそこが大変気に入り、みんな目に見えて元気になった。今はもう、クリミヤへの旅行もない。療養所の利用券が手に入らないそうだ。いろんな困難があることは分かる。しかしただ一つ理解できないのは、なぜ僕たち子どもが一番苦しまなければならないのか、ということだ。

 僕は生きて学校を卒業したら、すでに2人の兄が通っているコルホーズの技術学校に入学したいと思っている。僕は農学者になってこの土地と運命を共にしたい。僕はこの広い大地を治療し、小麦の種をまくことを夢見ている。僕は社会に必要な人間になり、多くの苦しみを見てきたベラルーシのために働きたいと思っている。でも一体、僕の夢は実現するのだろうか。


ニガヨモギの香気 ナタリア・スジンナャ(女・16歳)

ニガヨモギの香気 ナタリア・スジンナャ(女・16歳)
 第一中等学校10年生 ルニネツ町

 ずいぶん昔に、ヒロシマ・ナガサキの話を聞かされたことがある。原爆の刺すような光に殺された人、壁に焼きつけられた人の影。地獄の灼熱の中で、生きながら苦しみもがいて死んでいったたくさんの人々。頭ではわかっていても、その本当の恐ろしさを私は理解していなかった。ヒロシマ・ナガサキの人々の苦しみや痛みを、はるか遠くの見知らぬ人のそれのように感じていた。ただ、「ヒロシマが、ここでなくてよかった」ぐらいに思っていた。

 ところが、その恐怖がこの国でも現実のものとなってしまった。

 当時8歳だった私には、何もわからなかった。どうしてクラスの子たちみんなで「ピオネール・キャンプ」にいかなくてはいけないのだろう。どうして大人はこんなに驚いているの。どうしてママたちは泣いているのかしら。

 キャンプにいる私たちのもとへ家族から送られてきた手紙には、外の果物や野菜をとって食べてはいけない、とか、イチゴやキノコを採ってはいけないということが書かれていた。それさえ、私たちにとっては、めずらしく、ただの興味の的でしかなかった。驚きはしても恐さなどこれっぽちもなかった。私たちは「チェルノブイリ」という言葉が何を意味するのか、ほとんどわかっていなかった。

 春、色とりどりに香しい花の咲き乱れていた大地は、今やニガヨモギにびっしりと覆われてしまった。事故は原子力発電所の誰かのミスで起こったという。すべてが一瞬にして変わってしまった。うららかな、陽のさんさんと降り注いだあの朝に。真っ黒な風が吹きすさび、ベラルーシの青く澄んだ瞳を、悲しみと痛みの影でくもらせてしまった。地球全体が、凍りつき、つぎの瞬間に、無言のまま揺るがした。時間もまた凍りついたように動かなくなった。私たちは何も教えてもらえなかった。気がついたときにはもう、間に合わなかった。すでに子どもたちは被曝しており、避難のためキャンプに送られ、村はまるごと引っ越して人っ子一人いなくなった。私たちのまわりがせわしく動き始めた。

 補償。学校の給食や企業で行くサナトリウムの費用は無料になっている。両親は給料以外にも手当を受けとっており、私たちはそれで暮らしている。たが、これで状況が少しでもよくなるのだろうか。子どもが授業中に気絶しなくなるのだろうか。白血病で死ぬ人がいなくなるというのだろうか。私たちのはれあがった甲状腺が元どおりになるとでもいうのだろうか。

 私たちは以前よりも深く考えるようになった。医者が人の生命を救おうと努力してみても、国家があらゆる補償を与えようとも、私たちから、チェルノブイリの刻印が消えることはない。サナトリウムに行ったところで、家に帰ってくるのだから同じことだ。私たちはこの土地に住み、ここでできる果実を食べる。どうすることもできない。私たちは自分たちの犯した取り返しのつかない過ちに、今もそしてこの先もずっと苦しみ続けるのだろう。私たちだけではない。その子どもも、孫もひ孫も、だ。

 なんということだろう。新聞は、私たちの体の状態をさまざまな事実と統計をならべて警告している。ありとあらゆる体の異常、白血病、甲状腺肥大、私たちの体で休みなく続く変化。私たちは自分たちだけではなく、知人や大切な人のことをも心配している。

 だが、それと同じくらいに私たちを脅かしているものがまだある。私たちのゆがんだ魂。心の永遠の痛み。

 このような悲劇にあっても、私たちは孤立しているわけではない。世界中の人々が私たちに救いの手をさしのべてくれている。親切な、心のやさしい、他人の不幸をわかってあげられる人がいるというのは、もちろんいいことだ。

 彼らは私たちを慰め、痛みをわかちあい、それを言葉だけでなく行動でも示してくれる。彼らは、私たちに必要な援助や、機器を送ってきてくれる。私たちは他国の人の善意に対してあつかましくなってしまったうえに、そのことを認めようとしない。自分の傷を見せびらかし、自分でしでかした過ちを世界に賠償しろといっている。私たちはいろんな国からの贈り物を平気な顔で受けとるようになってしまった。仕事も忘れ、資本主義世界からの好意に頼りきってしまっている。

 私たちの社会は、まるで巣の中のかよわいひな鳥だ。大きく口をあけ、餌をくれる母鳥を待っているのだ。仕事に精をだすかわりに、自らの欠陥を直すかわりに、他の国々の水準に追いつくかわりに、私たちはみな、無秩序な底なし沼に深くはまりこんでいっている。援助はあくまで援助である。他人の体で永久に寄生虫のように生きてゆくことはできない。自分の悲劇を売り物にするべきではない。このことを心がけないことには、私たちは文明人として生きることはできない。もちろん、私たちと彼らは同じではない。私たちは目に見えない壁にかこまれている。私たちの多くがニガヨモギを背負っているからだ。だからといって、街角でそれを大声でまくしたてるべきではない。わが民族は悲劇を他人に見せびらかせたりなどしない。私たちは自分の運命に慣れてしまったかのように生きている。だが、本当は、変えたくても変えられないからだまって苦しんでいるのだ。それでも、心の奥深くで、冷たい絶望感がふるえている。時に、絶望が頭をもたげると、私たちは空を見上げ、たずねる。「なんのために……」答えはない。

 私は、ある女の人の話を思いだす。仕事から帰ってきた彼女に、彼女のまだ幼い赤ちゃんがこう頼んだ。「ママ、キエフに連れてって。ぼく、死ぬ前に教会の鐘が見たい」

 「赤子の口は真理を話す」ということわざを思い起こす。世界は、何千もの人々がチェルノブイリの十字架にはりつけになり、何百万もの人々が毒によって殺されるその最期を、なす術もなくただ待っているのだろうか。そんなの間違っている。生きなくては。

 何をすべきか順序だてて考え、希望をもとう。このような状況にも屈しない人々がいる。科学者はテクノロジーを安全なものにしようとし、科学を人類に役立てようと努力している。医者は、限られた条件の中で、被害者一人一人を救おうとしている。私たちはこの人たちのほうに、未来のため、私たちの子どものために、以前の恵み豊かな大地を取り戻さなくてはならない。

 現在の社会は私たちにきびしい教訓を与えた。おのおのがこの教訓から自分のいちばん大切なものを見つけだし、そして、自分の運命の、生命の、この地球の主人は自分だと悟らなくてはいけない。手遅れになる前に、一歩ふみだそう。苦痛を口実に無気力や無関心になるのではなく、それをバネに、大きくふみだそう。誰も、二度とこの苦しみを味わわなくてすむように、この地球の人間と自然が再び毒におかされることのないよう努めよう。私たちのすばらしい地球を、ニガヨモギの香気だけがただよう、生命のない無限の砂漠に変えたくない。


地球の生きている花 スベトラーナ・シュリャク(女・13歳)

地球の生きている花 スベトラーナ・シュリャク(女・13歳)
 第一中等学校6年生 ルニネツ町

 人間は宇宙から地球に来たと、時々耳にする。地球は私たちの家である。その地球で生彩を放っているのは、子どもたち。子どもは地球の生きている花である。その彩りのない地球を想像することができるだろうか。いやできない。地球には元始より、子どもが生きていくための環境がつくられているのだ。

 それぞれの子どもにそれぞれの運命があり、それぞれの宿命がある。大切なのは、地球という家によい足跡を残し、両親がくれたよりよいものを、混乱のなかでも失わないことである。私の生命はつい最近始まった。13年前に。

  私たちの娘 スベトラーナちゃん
  あなたは開いたばかりの草の葉っぱ
  私たちの愛はあなたと一緒
  最初のかわいいお花ちゃん

 この未完成の詩は、幼な子キリストを抱く聖母マリアのように母が私を腕にだいている私の最初の写真に、母が書きつけたものだ。これはまるでイコン(※)のようだ。それは私の最も好きな写真だ。私はその写真を長い間ながめ、すばらしかった幼い日のことを思いだしている。そのとき私はまだ、人生がいかにすばらしいか、よく考えもしなかった。初めて春の地面に咲くか弱い花がやさしい太陽の光に包まれているように、私も両親の抱擁(愛情・優しさ)と愛に包まれていた。


※イコン
 板に描かれた宗教画

 だが、このか弱い花に、いまいましいチェルノブイリの雨がふりそそいだ。説明できないほどの恐怖と好奇心でいっぱいになり、私は大人たちの話しに耳をすまして、彼らの顔や目をじっと見た。特に、私をおびえさせたのは「棺桶代」という言葉だった。私は以前、祖父の葬儀のときにもこのおそろしい言葉を聞いたことがある。私はこのお金でお棺を買い、死ぬのだと思っていた。その当時私は死を少しも恐れず、神様や悪魔やあの世にあるもの全てを見るために、死にたいとさえ思っていた。

 チェルノブイリの最初の打撃は、今思いだすだけでも、とげのような氷のかけらで私の心臓を貫く。私は学校の式典の途中に気を失い、5分後に意識を取り戻した。母の顔は青ざめ、目は恐怖で琥珀色になっていた。耳にはこれからおこる悲劇を知らせる鐘の音が聞こえてきた。そのとき、私は7歳だった。いつのまにか頭痛があらわれ、関節が痛むようになった。甲状腺炎と診断された。お医者さんたちは「全てチェルノブイリによってあらわれた、破滅をもたらすニガヨモギのせいだ」と結論づけた。

 私の明日はどうなるのだろうか。病気になった人は全く別の、全く「特殊な」人になると思う。彼らは世界を違った目でみる。私は今、人生のほこりだらけの道を歩いているような気がする。私は病気のことを考えないことにしている。生命はすばらしい。毎日、新しい、未知のものをいっぱいもたらしてくれる。だが、道はセシウムとストロンチウムのほこりでいっぱいだ。

 夕方になると、ベッドに横になって、星をながめるのが好きだ。いつもほかの星の同じ年の女の子と出会うのを想像する。私は夢の中で、絶対に彼女に会えると信じている。その時、最初に私が頼みたいのは、地球の子どもに本当の子どもの生活を送れるようにしてほしいということだ。そしていっしょに手をとりあって、私たちの家であるこの地球を飛び回りたい。

 分からないように、赤ちゃんのところに飛んでいこう。神様は子どもの目を借りてものを言うそうだ。彼らの目に冷淡のままでいられる人はいるだろうか。子どもはみんな、手をとりあい、大人の目を見つめる-神様が見つめるように。そうしたら地球ではもう誰も決して、自分や子どもたちのために、壊滅的な被害をもたらす放射能など、考え出すことさえもないだろう。悲しみを運ぶ鳥は、その翼で、地球の誰にも触れはしないだろう。そして、永遠に、地球の生きている花は咲き続けるだろう。

わたしはどこから来たの イリーナ・チェルノバイ(女10歳)

わたしはどこから来たの イリーナ・チェルノバイ(女10歳)
 チェメリスイ中等学校4年生 ブラーギン地区

 私のお母さんが「私の運命の中のチェルノブイリ」という作文を書いたノートを見て、チェルノブイリについて知っているの、と私に聞きました。私はとても小さかったころ、ウクライナで原子力発電所が爆発したことは知っていました。それがチェルノブイリ原発という名でした。お母さんの話しでは、子どもたちは5月になってはじめて、放射能汚染地から遠くはなれた所に連れて行かれたそうです。私たちは夏中、ゴメリ郊外の観光センターにいました。私は高い松とその松かさを覚えています。

 弟のチーマは、そのころはまだいませんでした。彼はあとで生まれました。とてもかわいかったです。毎年、お父さんとお母さんが努力して私たちを黒海に連れて行ってくれたことをはっきり覚えています。休息し、泳ぎ、日光浴をするためです。列車の窓からは、楽しい、いろんな色の、まだら模様の畑や、煙突のある工場、山のブドウ畑、数多くのおもしろいものがたくさん見えました。しかし、一番よかったのは、海です。夜でも、天気がよくなくても、海に行きました。海の音を聞きに行くのです。天気がいいと、波は音もなく砂をあらい、私のはだしの足をなでてくれます。怒ったネプチューン(※)が自分の娘たちの髪を引き抜くように、岩に海草がたたきつけられています。そよ風が、夜の鏡のような海から涼しさを運んできます。山には明かりがちらちらしています。ある日、イタリアの船を見ました。それは空に星のように、光っていました。


※ネプチューン
 ギリシャ神話に出てくる海神

 人はどこにでも住んでいます。ただ、私の住んでいるブラーギン地区だけは、空き家がたくさんあります。窓ガラスはやぶれ、人が長いあいだ住んでいません。人は死んだか、どこかに行ってしまいました。恐ろしいことです。まるごと無人の通りもあります。お父さんが「チェルノブイリの事故までは、手を出すと、そこから風が吹いてきた」と言ったことがあります。私は小さいからなのでしょうか、その意味がよく分かりません。私とチーマは、お父さんとお母さんといっしょにいるのが大好きです。両親が、よく病気をするのが残念です。なぜなら、もうすぐ海へ行くし、私はチーマに本を読んであげることができないからです。私は目が悪いのでたくさん本を読めません。私はメガネをかけていて、小児眼科専門サナトリウムに治療で行ったこともあります。

 よかったこともあります。牧師さんが私たちをドイツに招待してくれたことです。そこにまる二日かかって行きました。私はベラルーシがとても有名だとは知りませんでした。ポーランドの田舎にもベラルーシの旗がありました。ドイツの出窓もベラルーシの旗の色でぬられていました。私たちは公園で遊ぶのを喜びました。白鳥が川を泳いでいました。ノロ(※)が道路の上を走っていました。ドイツ人は動物が大好きです。動物がよく太っています。


※ノロ
 シカ科の小動物

 ベラルーシの動物はかわいそうです。森の中では、放射能入りのドングリを食べ、汚染された草を食べています。たぶん、彼らも人間と同じように病気になっていることでしょう。鳥のウソが、長いこと冬になっても飛んできません。ひょっとしたら、チェルノブイリの風が吹き飛ばしたのでしょうか。コウノトリもあまり見かけません。

 私のおじいちゃんとおばあちゃんは、森のそばにある小さな村に住んでいます。とても美しいところです。春にドニエプル川の水が増えると、動物たちは人家に近い島に集まってきます。彼らは人間がボートで村に運んでくれることを期待しているのです。ウサギだったらいいけど(おじいちゃんは一度助けたことがあるそうです)イノシシだったらどうするのでしょう。ヘラジカは泳ぐのが上手です。ヘラジカは水がひくと、森へ走り去ってしまいます。松林にかくれてしまいます。おばあちゃんと花をつみにいったとき、一度だけ、赤毛の子ぎつねを見たことがあります。

 私は、たき火で焼いたサーロとドニエプルで捕れた魚をつかったスープが好きです。私はこんなことを書くのが大好きです。ここは、私の心のふるさとになるでしょう。自然も人間もここに長く住めるようにしてほしいです。恐ろしい原子キノコが生えないでほしいです。きれいな泉の水を飲みたいです。私の両親は孫ができるまで生きたいと思っています。私が大人になって、私の子どもたちが放射能を気にしないでいいようになってほしいです。


二つのひまわり・・・二つの太陽 リリア・アダモーワ(女・16歳)

二つのひまわり・・・二つの太陽 リリア・アダモーワ(女・16歳)
 ピンスク職業技術学校生徒 織物訓練生

 1986年の夏のことだ。夏休みの前に、レニングラードに住んでいるおばさんから電話があった。彼女は興奮し泣きながら、「ベラルーシ人はみんな死ぬんだってここでは言われているの。一か月でもいいから子どもたちを私のところに送りなさい」と言った。父は休暇をとり、私と弟をレニングラードのおばさんの所に連れて行った。私たちは近くの同じ年頃の子どもたちとすぐに仲良くなった。そこでの生活は本当に楽しかった。しかし、ある日、弟とボール遊びをしていると、何人かの男の子たちが近づいて来て、私たちを指さして、笑いながら言ったのだ。

 「やーい。チェルノブイリの坊主頭。暗闇でも光ってる」

 私たちは彼らと一緒に自分たちを笑うべきか、彼らに腹を立てるべきなのかわからなかった。ただ、私たちの心が傷ついたのは確かだ。私たちは、自分の罪が何なのかわからなかった。自分たちが犯罪人に思えた。そんなことがあって、私たちは外で遊ぶことが少なくなった。家に手紙を書いて、早く私たちを連れて帰ってと頼んだ。

 新学年になると、子どもたちの中に、頭痛が始まり、失神したり、気分がわるくなったりするものが出てきた。その原因はただ一つ、放射能だ。

 その一年後、私の家庭に不幸が訪れた。

 母はゴメリ州出身で、親戚はみんなそこに住んでいる。そこのコスチュコフカから、コーリャおじさんが死んだという最初の訃報が届いた。その8か月後、次はダーシャおばさんが死んだと便りがあった。また、放射能が原因であった。

 ホイニキには母のいとこが住んでいるのだが、彼女から「病気がちなので、ホイニキに来て欲しい」という手紙が届いた。母は私を連れていくことをためらったが、私が母を説得した。

 私たちは、ホイニキに行った。この町については、たくさん語られ、書かれている。たぶん、以前は美しい町だったのだろう。いまではあちこちに打ち捨てられた家がある。窓は釘づけされ、庭はイラクサやアカザの雑草が茂っている。涙なしには見られない。窓を十字に板を打ち付けられた家は、「みんなどこにいるの。帰って来て。この家に住んで。待ってるのよ」と叫んでいるようだった。

 もうこの土地では、子どもの笑い声は聞けないのだろうか。疲れた旅人を夏の暑い太陽から守る大きな木は生えてこない。打ち捨てられた一軒の家の雑草の中で2本のひまわりが2つのおひさまのように立っているのが、突然、私の目に飛びこんできた。

 2つのひまわりのくきは細く、花は太陽に向かっていた。それはまるで生命に向かって立っているようだった。よりよいものを求める希望の光に見えた。私は確信した。「すべてが失われたわけではないのだ。ここには生命が戻って来た。私も力を取り戻さなくては」と。

 母はいとこに、私たちの所に来るように説得した。しかし、おばさんは断った。でも今では、おばさんの子どもたちが夏休みにはうちに来るようになった。

 ホイニキには数日しかいなかったが、そこで見たものすべてが、忘れられないものになるだろう。

 ホイニキへの旅の後でさえ、私は、事故が私たちに与えた不幸について完全には認識していなかった。

 すべての苦しみ、すべての損失がわかったのは、「チェルノブイリの子どもたち」というテレマラソンを見てからだった。私はテレビのそばを離れることができなかった。恐ろしくなり、枕に顔をうずめ、何も見たくなかった。母は一日中泣いていた。しかし、人間はすぐに慣れてしまう。8年もたつと、そんなに怖くはなくなる。

 人間には、いつも希望が必要である。最後まで残るのが希望である、というのはいいことだ。

 テレビや新聞で、将来どうなるのかがよく報道される。わたしは「そうじゃない。命が戻ってきているのを、知っているし、信じている」と大声で叫びたくなる。

 私はまだ16歳だ。私の望みは、まだかなってはいない。チェルノブイリの事故の黒い翼が、私をおそったことを考えると恐ろしい。私の人生はこれからだ。私に子どもができる。彼らはどうなるのだろう。私は気分が悪い。いつもめまいがする。でも、私は、人生はとどまることがないことを、希望し、信じて生きる。


苔、ああ苔! ビクトル・ブイソフ(男・15歳)

苔、ああ苔! ビクトル・ブイソフ(男・15歳)
 第二中等学校8年生 クリチェフ市

  「ヒロシマ・ナガサキ・チェルノブイリ。それはどんなだったのか」
    フセボロド・オフチンニコフ著『熱い灰』より

 「1945年8月6日、月曜日。朝、広島の上空に一機のB29(※)が現れた。それはイザリー少佐の操縦する飛行機であった。それまで雲が空一面にかかっていたが、ちょうどその時、広島上空に直径20キロメートルの晴れ間ができた。8時14分15秒、爆弾収納のハッチが開かれた。その後47秒間は、広島の上には太陽が穏やかに輝いていた。そして、音のない原爆の光が一瞬にして、広島を『熱い灰』に変えてしまった。


※B29
 第二次世界大戦中使われたアメリカの爆撃機

 気象偵察機は、小倉も長崎と同じく晴天であることを知らせてきた。爆撃機は小倉にコースをとった。しかし、爆弾投下の直前、日本の南からの風が向きを変え、厚い雲のベールが街を覆った。スワニー少佐は、原爆投下を予備の目的地であった長崎にかえた。こうして長崎の悲劇的な運命が決められた。1945年8月9日11時2分、長崎のある教会の真上で原爆は爆発した。

 日本を占領したアメリカ人は原爆投下とその犠牲について報道することを禁止し、ヒバクシャ問題は日本ではタブーとなった。しかし、時がたつにつれ事態は明らかになり、今では全世界がこの恐ろしい出来事をよく知っている」

  「プラネタ」出版社刊「チェルノブイリ・リポート」(1987年末、5万5千部発行)より。

 1986年4月26日朝、チェルノブイリ原子力発電所で事故が発生した。原子炉が破壊された。周囲にはウラン核燃料(※)とコンクリートの破片が飛び散り、原子炉は死の灰を放出した。事故直後、多くの人が放射能によって、死に、発病した。その日の天気はすばらしく良かった。風はほとんどなく、凪ぎの状態で、太陽は明るく輝いていた。これは不幸中の幸いであったかもしれない。もしこの日、風があれば、事故の被害はもっと早い速度で周囲に拡がり、より悲劇的なものになっていたであろうから。だが、いずれにせよ、平和利用の名のもとに僕たちの国に持ち込まれた原子力が今や牙をむき出して、原爆と同じように放射能によってつぎつぎと人を殺している。

※ウラン核燃料
 原子炉の燃料や核兵器の材料としてつかわれる。

 僕は1979年12月16日に生まれた。事故当時は、6歳すぎだった。そのころのことを、断片的に思いだす。

 朝。湿ったもやが太陽の光をさえぎっていた。父と一緒に菜園に行き、種蒔きの準備をした。そのうち太陽が姿を現し、僕は喜んで一日中太陽の光を浴びた。朝の仕事をすませ、昼食の後、家族全員でモスコビッチ(※)に乗って森へでかけた。


※モスコビッチ
 ロシア製乗用車

 翌日、白樺ジュースをとりに出かけた。ソコロフカのそばの白樺林では白樺ジュースが採取されていた。僕たちはたき火を起こし、サーロ(※)を焼き、ジュースを飲んだ。それは楽しくて、幸せそのものの一時であった。白樺ジュースを家へ持って帰り、知人や友人に分けた。それを穴蔵に貯蔵し、一夏中、飲んだ。

※サーロ
 豚の脂の塩漬け

 その年のメーデー、5月1日も良い天気だった。広場は赤旗でうめつくされ、人々はほほ笑み、喜びにあふれている。僕たちは行進に参加し、演壇のそばでは「ウラー(※)。ソ連共産党に栄光あれ!」とシュプレヒコールをあげた。

※ウラー
 万歳

 5月9日、僕たちのクリチェフの町に第二次大戦の功労者がやってきた。彼らに花束やプレゼントを渡した。クルガン・スラーブイには大勢の子どもや大人が集まった。集会の後、コンサートが催され、市もたった。

 夏の間、両親と一緒にチェリコフ郊外で過ごした。サラノエ湖のそばで、コケモモ、イチゴ、キノコを採った。ソシ川では水泳をし、日光浴をした。

 その年の秋に、僕は入学した。戦争や労働の功労者が学校を訪れ、平和授業があった。また、生徒全員で町の建設850年の祝日の準備をした。祝日の日、町は再び赤旗でうめつくされ、演説、歌でにぎわった。

 チェルノブイリについて僕たちが知ったのは3、4年のころだった。ここから遠く離れたところで、原子炉の爆発があったと聞かされたが、僕たちの地区や町が被害を受けていることは、その時は一言も話されなかった。けれども、そのことをそのすぐ後に知ることとなった。当時、僕たちの国では、チェルノブイリの事故は、日本のヒバクシャと同じでタブーであった。2、3年もの間、誰も森でイチゴやキノコを集めるのが危険だとは言わなかった。僕たちはチェルノブイリの白樺ジュースを飲んだ。セシウム、ストロンチウム、ププルトニウムの入った、キノコやイチゴを食べ、放射能でよごれた太陽で日光浴をし、放射能で汚染された川や湖で泳いだ。

 僕のクラスにアリョーシャ・メリニコバという女の子がいた。彼女の両親は新しく木の家を建て、その家に3年ほど住んでいた。アリョーシャが発病した。保健所が放射能測定をした結果、彼女の家の放射能濃度は基準を超えていることがわかった。その家は、苔の上に建てられており、その苔が放射能に汚染されていたのだった。

 国家のチェルノブイリ委員会は、彼らに新しく別の家を建て、アリョーシャはサナトリウムに送られた、だが、病気になっているのはアリョーシャ1人ではない。

 ここ数年、僕たち同級生はナリツィクやビチェプスクで休暇を過ごした。去年は放射能汚染がひどいボトビノフカ、オソベッツ、スルツクの子どもたちと一緒にドイツを訪れた。飛行機は2時間半で北ラインのキュテルスロの町に着いた。僕たちは、それぞれ子どものいるドイツの家庭に分かれた。ドイツの人々と僕たちはお互いによく理解しあえた。というのは、そこにはカザフスタンやロシアからの難民が住んでいて、僕たちの通訳をしてくれたから。

 僕はグロフェル家の美しい木の家に滞在した。そこには男の子3人がいた。マークス、ティーロ、ヤンだ。コンサート、サーカス、軍事科学博物館へ連れていってもらった。公園に行き、メリーゴーラウンドにも乗った。一番の思い出は、僕の国では見たこともない螺旋状の滑り台のあるプールで泳いだことだ。上から下へ何回も滑り降り、気が済むまで泳いだ。子どもたちと一緒に一つの部屋に住み、食事をした。自転車を一緒に乗り回した。彼らのお母さんとは、よく食料品店に行き、夢でしか見たことのないような豊富な食料品に驚いた。

 ドイツ人の友人たちは僕たち一人ひとりにプレーヤー、カセット、ジーンズ、ジャンパー、きれいなスポーツバック、チョコレート、キャンディをプレゼントしてくれた。ドイツはすばらしかったが、少しだけ自分の町や、友だち、故郷の自然が恋しかった。

 「ベンツ」社製のバスでドイツ、ポーランドを通って帰国し、帰ってからドイツに手紙を書いた。秋には小包や手紙が送られてきた。グロスフェルさんは次のように書いてきた。

 「小包と写真を送ります。こちらはすべて順調です。君もそうだと思います。報道によると、チェルノブイリ原発は完全に活動を停止したわけではなく、今でも放射能を出しているそうですね。チェルノブイリが再び爆発しないよう、神様にお祈りをしています。君たちも、私たちのために、神様にお祈りして下さいね」

 全世界平和委員会(※)は毎年8月、核兵器の禁止と原爆被爆者との連帯のための行動週間を実施することを決めている。肉親を失った広島・長崎の人々と、僕たちの同胞だけではなく、全人類がこの日、新たな誓いをくりかえす。広島の平和公園の石碑に刻まれた「安らかにお眠りください。あやまちは二度と繰り返しませんから」という誓いを。


※全世界平和委員会
 旧ソ連時代にできた平和を求める国際組織

 同じように人々はチェルノブイリとその悲劇をも忘れないようにして欲しいものだ。真実を語ることを禁じられたことを忘れてはならない。あざむかれて、野外の太陽のもとで祝日の行進に参加させられたことを忘れてはならない。そして、ベラルーシ人、ロシア人、ウクライナ人に対し、真実を隠した人の名を公表してほしい。真実は決して隠したり、地中に埋めたりしてはいけないものなのだ。

 学校では、何年か前から「チェルノブイリの日」をもうけた。そうろくに火をともして、事故後になくなった生徒、先生、知人をしのんでいる。今では、たとえ誰かがいやがっても、人々は公然とチェルノブイリのことについて話しているということを、僕は大人たちから聞いている。

 アメリカ人、日本人、ドイツ人、ベラルーシ人、世界中の人にとって、地球はひとつである。地球を大切にしなければならない。地球は僕たちの家である。一緒になって地球を守らなければならない。

チェルノブイリとは…… オリガ・セメンチュック(女)

チェルノブイリとは…… オリガ・セメンチュック(女)
 第二九中等学校11年生 ゴメリ市

  わがスラブ民族の大木に
  チェルノブイリの有刺鉄線が
  巻き付けられた
   タイシア・メリチェンコ

 チェルノブイリとは、通学路で見る露にぬれたアスファルトの道、空、木々、そこで騒いでいる鳥など美しいものすべてが、死にさらされていることを信じないように自分をだまし続けることなのだ。つい最近まで、生命のシンボル、そして天の恵みだった夏の雨が、今では毒され、とても危険なものになったということを、以前は、できるだけたくさん吸うようにと医者がすすめた大気が今は病気と死をもたらすことを。そのうえ、大地とすべての生きものをあたためていた黄金の陽光が今では無慈悲にも、放射線を浴びた人間の病気を加速させ致命的な打撃を与えることを。

 チェルノブイリとは、ベラルーシ文学の授業中に、それまでは誰もが知らなかったような作品が読まれることである。これらの作品のすべてが、一つの共通のテーマ……チェルノブイリの事故でまとめられている。これらの本はすべて、恐ろしい死の現実をするどく理解させる。

 アレーシャ・アシベンコの「不吉な星」は、心の痛みなしには読めない。ことに、チェルノブイリで致死量の放射能に汚染され、死の静寂が漂っている村から脱出してきたゴメリの詩人の作品は。

 チェルノブイリとは、物理の教科書で、放射能から身を守る方法を読むことである。しかしそこには、「(放射能をおびた)施設から遠ざかる」ことしか書かれていない。こんなばかばかしい本を読むと、ずたずたに引き破り、この本をつくった人の目をのぞき込みたくなる。

 チェルノブイリとは、恐ろしいほどの苦痛であり、魂の退廃のことである。「施設から遠ざかる」という助言通りに、ロシアにある町に療養に行くとする。そこでは同情や援助ではなく、冷淡さや敵意にさえ出合うのだ。そこでは、あなたと同年の子どもの両親たちが、「チェルノブイリの坊主頭」たちが自分たちの一人娘に何か危害を加えるのではないかをおそれている。

 チェルノブイリとは、贖罪のゾーンのことである。これは、30キロゾーンといわれるものとは別物である。ベラルーシの大地は長いことゾーンと呼ばれることだろう。私のふるさとの大地は全て、刻印されてしまったのだ。チェルノブイリの事故のあと、外国人も含め多くの人がベラルーシに来るのを避けるようになった。

 チェルノブイリとは、恐怖。未来に対するあらゆる恐怖のことである。チェルノブイリの体験は、森やきれいな水や、空までをも疑わせる。いま、医者に行くのが怖い。だって、検査のあとで医者から何を告げられるのか。放射能の目に見えない攻撃は、すぐにはふりかかってこないにしても、確実に続いているからだ。

 チェルノブイリとは、短期間滞在する外国人が、なんとか恐ろしさを隠した顔で、「放射能の数値が通常の何十倍もあるところでどんな暮らしをしていますか」と、質問することである。もちろん彼らが、私たちを理解することはできないだろう。以前、事故のあとで、ある政府の幹部が何を考えていたか、私たちが全く理解できないように。彼は言った。「わが国では、自然と人体に対する放射能の影響について、短期間でも長期にわたっても、多くの経験が蓄積され、不偏化されている。ゆえにチェルノブイリには放射能の悪夢はなく、被害の起こることはないだろう」と。

 チェルノブイリとは、第二次世界大戦よりもっと恐ろしい本当の戦争のことである。人類史上におこった戦争の中で最大のもの。ベラルーシの大地に冷酷な敵が荒れ狂っている。人殺しは見えないし、いつ彼と出合っているのか感じないし、どう闘っていいのかもわからない。でも、この見えない悲惨な戦闘にも多くの英雄がいる。消防士、飛行士、労働者、職員など、原発事故後のきびしい状況と戦い、自分の健康や生命までも犠牲にして私たちを救ってくれた人々である。

 チェルノブイリとは、絶望や不気味な予感がまるで鋼鉄のペンチのように心をしめつけること。この心の痛みと無力さから、全世界に向かって叫び、神にあわれみを乞いたくなることである。「神様、どこにいるのですか。あなたは何の罪でベラルーシの人々にこれほどの苦悩と苦痛をさずけられたのですか」と。

 チェルノブイリとは、多分、地上で行われたすべてのことへの母なる大地の恐ろしい復讐である。私たちの父や祖父たちの償うことのできぬ罪業、母なる大地への数十年にわたす愚弄、果てしない偽りに向けられたものだ。私たち自身が70年も取りつかれたようにチェルノブイリに向かって歩み続け、原子炉の爆発へとたどり着いた。他でもない、われわれ自身がこの悲劇の罪人なのである。

 それでも私は、チェルノブイリ事故が、わが祖国の歴史の最後の1ページにならないように望んでいる。私には夢がある。いつの日か、せめて私たちの孫の時代には、川や湖が再び蘇り、雨もまた命を与えてくれ、そして、太陽は再び魔法の光で、私の大切な疲れ果てた大地をやさしく暖めてくれるという夢が。私はひたすら夢みている。それでなければ生きてはいけない。


鏡さん、話しておくれ ビクトリア・ルゴフスカヤ(女・16歳)

鏡さん、話しておくれ ビクトリア・ルゴフスカヤ(女・16歳)
 第七中等学校10年生 スルツク町

  遮断機のむこうに 雲がたれこめている
  二十世紀は人類の行き止まりなのか
   イーゴリ・シクリャレフスキー

 それは、そうとう前にあったことだが、私はいまでもその日のことを覚えている。4月の終わり頃で暑かった。草は青く茂り、乾燥した風が吹いていた。穏やかな春の日、そんな日に誰が死の粒子の事を想像できたろう。すべての生き物を殺し、害をあたえる物質が私たちのすぐそばの空中にただよっていたなんて。いつものように友だちと一緒に外で遊んでいた私は、家のそばの草原で小さな手鏡をみつけた。8歳の女の子にとって、それは何とうれしかったことか。その後、おばあちゃんが、焼きたてのキャベツ入りのピロシキを食べるようにと、私を呼んだ。そのおばあちゃんはもういない。けれどその日見つけた鏡は、いまでもカバンに入れて持ち歩いている。私はいつもその鏡をのぞき込み髪をなおしている。

 太陽、草の鮮やかな緑、ほほ笑むおばあちゃん、キャベツ入りのピロシキ。これらはすべて過去のものになってしまった。「チェルノブイリ」という恐ろしい一語がそれを打ち消してしまったのである。私が、最初にチェルノブイリが本当に恐ろしいものだと理解したのは、隣のおばさんの話からだった。おばさんは涙ながらに、彼女の姪の葬式に行った話しをした。彼女の妹の小さな娘は病院で白血病のために死んだそうだ。この小さな女の子にこんなに早く死が訪れることを、誰が知っていただろうか。この子が知るはずだった初恋の苦しさと喜び、母親になる幸せ、生きる幸せ。何も知らないで死んでいくとは、この子自身も思いもよらなかったろうに。

 「ママ。お人形さん、買って。ベーラちゃんと同じもの」

 ある日、女の子は母親にこうおねだりしたそうだ。

 かわいそうにそのこの母親はこの一人っ子の病気で、すっかりふけ込み、わずかのお金も高価な薬のために使ってしまっていた。こんなことさえなければ、母親はたぶん娘にこう言っただろう。「でも高いのよ」と。けれども病床の娘の欲しがるこの人形が、死の淵にいる子どもに希望を与え、元気づけるのであればと母親はいとしい娘に人形を買い与えた。しかし、そのかいもなく女の子は小さな指で人形を抱きしめたまま死んでいった。

 私の母は、隣のおばさんを長い間なぐさめて、薬酒を飲ませた。それから母は私に部屋から出るように言った。

 この日、私ははじめてチェルノブイリの意味が分かった。それは放射能であり、白血病であり、ガンである。子どもたちはそれによって死んでいく。何の罪でこうなるのか。このような子どもはどれだけいるのか。私の知り合いが、悲しいことに有名になってしまったミンスクのボロブリャン(腫瘍学研究所があるところ)で実習をしたときのことを話してくれた。

 「病院をかけまわっている子どもはまるで宇宙人のようだ。髪はなく、まつげもなく、顔には目だけ。ある男の子は骨に皮がついているだけ。体は灰色だった。最初は避けていたが、あとでは慣れてしまった」

 慣れた……。私たち、みんなが慣れてしまったら、この先どうなるのだろう。誰かの怠慢で原発が爆発し、海や川や空気を汚し、人が死んでいくのに慣れてしまうとしたらどうなるのだろうか。

  十七世紀 殺された人
   330万人
  十八世紀 殺された人
   520万人
  十九世紀 殺された人
   550万人
  二十世紀 400万人以上
   ヨーロッパだけで

 モギョリョフ出身の詩人イーゴリ・シクリャレフスキーがこの詩を書いた(詩集『平和についての言葉』1984年)。彼は、この恐ろしい数字にどれだけの人命が付け加えられるか知らなかった。4千万人もの尊い生命が。

 何人がガンで死んだのだろう。何人が白血病で死んだのだろう。このそっけない統計のうらには何があるのだろうか。何千、何百万人という人々が不幸でうちひしがれた。学校の物理の授業で先生がチェルノブイリ原発事故の被害について話してくれたとき、私は先生の話にショックを受けて、ノートに絵を書き残した。8本足の馬、尾が二つのキツネ、巨大なトマト……。そのころの私にとっては、たぶん、それらはすべて空想によるものでしかなかった。だが、つい最近、雑誌の『アガニョーク』の古い号をパラパラとめくっていた時、私は突然凍りついてしまった。これは何だ。痩せこけた青白い顔に大きな苦痛の目をした子どもの写真。日本の九州の、生まれつき手のない盲目の小さな女の子の写真だった。この子の母親は原爆病で死んだそうだ。ああ、いつの日か、私の愛するベラルーシの子のこんな風にうつろで懇願する目に、雑誌の中で出合うことになるのだろうか。

 もっと恐ろしいことがある。ある種の人たちは他人の不幸をしりめに金儲けをしている。ある者は汚染ゾーンから持ってきたトマトを市場で売り、またある者は異常にきれいで熟した、大きいリンゴをバケツごと売りつけている。家と財産を放り出して逃げた人々がいる一方でトラックでその家に乗りつけ、家具、じゅうたん、クリスタルガラスの花瓶を盗み出しては、町で売りさばいている者がいる。こんな風にチェルノブイリの闇商売は続いているのだ。このような不道徳な心ないことが起こる原因はどこにあるのだろうか。飢えや貧困がこの人々を罪の道に走らせるのではあるまいか。

 「人の良心は清くあるべきだ」詩人ボズネセンスキーのこの訴えは、今の私たちにこそ必要なものだ。人々の良心は、恐ろしい戦争中でさえ申し分なく残っていた。当時は、自己犠牲の崇高な精神や、私心のない禁欲主義が要求され、それが発揮されたものだった。他人の不幸で金儲けするこの成り金たちはどこから現れてくるのだろう。この寄生虫どもを人間とよんでもいいのだろうか。「人であるということは、自分自身の義務を意識することである」とフランスの作家サン・テグジュペリが言った。そのとおりだ。危険に直面するとき人の無責任と弱点は、全人類に災害や事故や滅亡をもたらす。まだ遅くない。踏みとどまって、ツルゲーネフの小説にでてくるバザーロフのように行動しよう。「自然は寺院ではない。作業場である。人はそこの働き手だ」と。何年間、人はこのような「働き手」だったのだろうか。有名なポーランドの批評家スタニスラフ・エジ・レッツが言ったことを思いだしてみよう。「人類の手にすべてがある。だからこそよく手を洗うことだ」と。

 チェルノブイリ。現実と、そして私の想像。すべてが混じり合って区別がつかない。穂がやけ焦がれた畑、鉛色の雨雲でおおわれた重苦しい空、するどい叫びで静寂をやぶって旋回する孤独のカラス。チェルノブイリ……。ずいぶん昔だった……。昔だろうか。残念ながら、チェルノブイリの悲劇は続いている。それを、いつも思い起こさせるのが、小さく丸い鏡。それを見つけたのが、あの忌まわしい日、1986年4月26日。


ゾーリカ・ベネーラのうた オレグ・ポノマリョフ(男・11歳)

ゾーリカ・ベネーラのうた オレグ・ポノマリョフ(男・11歳)
 ゴールキ町 第一中等学校7年生

 僕が住んでいるゴールキは、モギョリョフ地方の西にある緑の多い快適な町です。このあたりには、チェルノブイリの悲劇はそんなにはありませんでした。しかし、チェルノブイリの悲劇が全ベラルーシ人をおそっていることはよく知っています。原発が爆発し、ベラルーシに苦痛が居着いてしまったとき、僕は4歳でした。被災者の不幸や痛みを少しだけでも理解できるようになったのは学校に入学し、読み書きができ、歌をうたうようになってからです。祖父は放射能汚染地図を見せてくれ、何千人もの人が子どもと一緒に脱出したと話してくれました。

 僕の学校にアリョーシャ・ボリセンンコという女の子がいます。彼女は両親と一緒にブラーギン地区のコルマリンという町に住んでいました。そこはチェルノブイリ原発から32キロのところにあります。事故の時、アリョーシャは妹と一緒に外にいたそうです。放射能はベラルーシに向かって飛んできました。アリョーシャのママはすぐに姉妹を連れ出し、その日のうちにおばあちゃんの住むゴールキに連れていきました。ゴールキは汚染されていなかったので、彼女たちを不幸と死から遠ざけるためにはとても賢明な判断でした。しかし、彼女のママは、放射能でいっぱいのコルマリンにもどったのです。そのために、治らない病気や死に脅かされることになりました。

 アリョーシャと妹はおばあちゃんのところに残りました。彼女はママやパパに、早くここに来るようにと手紙をたくさん書いていたそうです。アリョーシャは、ママから頭をやさしくなでてもらい、両手で静かにあやしてもらうのが大好きでした。そして、ママの笑顔がとても好きでした。しかし、原発事故のあとママの笑顔が少なくなりました。ママに会うこともめったになくなり、寂しくてしかたがありませんでした。

 アリョーシャの両親は、ちょうど一年間ゾーンに住んでいましたが、ついに脱出する決心をしました。ママの姉妹がグルジアに住んでいたので、家族全員でそこに引っ越したのです。しかし、そこでの生活も長くは続きませんでした。というのは、戦争が始まったからです。銃撃や人殺しが始まり、子どもたちも殺されました。外に出ることもできません。アリョーシャの家族は恐怖と涙の日々を送っていましたが、やはりがまんできず、ゴールキに帰ることになりました。パパは郊外のコルホーズに就職が決まり、そこの寮に住むことになりました。それは彼にとっても、苦しいことでした。いったいいつになったら、当たり前の生活にもどれるのでしょう。だれがそのことを保証してくれるのでしょう。

 苦しんでいる人々をどうしたらいやしてあげられるのでしょう。ろうそくの灯のような希望でもいいから与えることができたらと思っています。もしかしたら、歌なら少しの間だけでも苦しみを忘れさせることができるのではないでしょうか。僕は舞台で歌っているときはいつもこのことを考えています。

 母の話しでは、僕はまだおしゃべりもまともにできない1歳半のときにはもう歌っていたそうです。幼稚園では、朝の集会のとき、合唱に参加していました。その後、音楽学校に入学し、尊敬するアレクサンドル・バシャリーモフ先生から音楽や歌を教わりました。そして、彼と一緒にシュクロフ、ミンスク、ノボポロツク、ドリービンの町にコンサートのために出かけました。サンンクト・ペテルブルグで開かれた子ども軽音楽国際コンクールでは、ベラルーシの名誉をかけて参加し、2位に入賞することができました。

 とくに感動したのは、ミンスクでの慈善コンサートでした。そのコンサートは孤児、障害を持つ子ども、大家族の子ども、チェルノブイリゾーンから移住してきた子どもたちのために開かれたものでした。僕は歌を歌うときには、力いっぱい、心から歌うようにしています。その時も、そうしました。観客が、少しでも喜びと希望を持てるように願って歌いました。僕は、このようなコンサートをもっと開いて欲しいと思います。不幸な子どもたちの心は、コンサートのときだけでも暖かくなるでしょう。コンサートでは、お金が集められ、子どもたちの衣服や食料を買うために使われます。彼らは生活に困っています。チェルノブイリの病気を持った子どもたちは特にそうです。彼らはとても苦しんでいます。たぶん多くの子どもたちの病気は完治しないでしょう。誰が悪いのでしょうか。原発でしょうか。それとも無責任な大人でしょうか。

 ミンスクで開かれた第一回ベラルーシ語再生(※)の日の記念コンサートのときです。そこで僕は、「ゾーリカ・ベネーラ(空を焼く明星)」の歌をうたいました。うたい終わったあと、拍手がなりやみませんでした。舞台から退場すると、白髪の背の高い男性が近づいてきて、僕のちいさな手をにぎりしめました。その男の人は目にいっぱい涙をうかべ、目をしばたいていました。その人は詩人のニール・ギレビッチさんでした。僕の愛するこの叙情的な歌に彼は感動したのです。僕はこのことに強く感銘を受けました。このときのコンサートを思いだすと、僕の目の前に見えてくるものがあります。チェルノブイリ原発の上に出現した黒い雨雲が、僕の祖国ベラルーシを次第におおい尽くしています。でもその上には明星(ベネーラ)が輝き始めたのです。その暖かくやさしい光は、雨雲をつらぬき、大地のすみずみを照らし、人々の心を満たしてくれます。チェルノブイリの雨雲のため、暗黒に身を沈めていたすべての人が突然よみがえり、天をあおぐようになりました。そこにはもう雨雲などありません。夕焼けの空には、明星が堂々と輝いています。僕はこのようになって欲しいと切に願っています。このようなことはただの願望で終わってしまうかもしれません。しかし、僕は何度も何度も歌い続けます。歌をきくことによって、人々が少しでも楽になり、大きな不幸から抜け出すことができたらと思っています。


※ベラルーシ語再生
 旧ソ連時代、ロシア語が国語化され、ベラルーシ語がすたれていた。独立後、ベラルーシ共和国政府がそれを再生させる運動を起こした。

永久に続くのだろうか タチアーナ・オクチオノック(女)

永久に続くのだろうか タチアーナ・オクチオノック(女)
 ラドシコビッチ中等学校9年生

 ふるさとの家、ふるさとの村、ふるさとの町、そして祖国。生まれた土地への愛着が心に芽生えるのは、いつの頃からだろう。それはおそらく、音や音楽、そして匂いなどのイメージを感じはじめる幼い頃だろう。

 ふるさとの思い出は、苦しい時に人を慰め力づけてくれる。どこにいても、どこに住んでいても、幸せだった子どもの頃の思い出は、夢のなかでさえ人を裏切りはしない。私はよくキノコ狩りや木々の下のやまどりの夢を見る。夢の中でもキノコを注意ぶかく採って、やさしく小かごに入れるのだ。

 今私はふるさとの森に行くと、たまらない懐かしさとともに、正反対の感情が湧いてくる。なぜなら、森はチェルノブイリの死の影に犯されているのだから。私はチェルノブイリをテーマにした詩を書いた。

  チェルノブイリ 原子のパーティー
  私のふるさとへの 死の贈り物
  汚染地図には おまえの残した爪痕が見える
  学校のノートに書いた地図には
  真っ白なページに 無数のしみが浮いている
  どこをめくっても 死に絶えた川ばかり
  どこをめくっても 破壊された森ばかり
  そして だれも 居なくなってしまった村
  独り身の老婆たちの もの悲しい泣き声
  こんなことが 永久に続くのだろうか
  この不幸からの救済はないのだろうか

 チェルノブイリの悲劇。それは偶然の事故ではなく、私たちの生きてきた過去の当然の結果。善も悪も全て人から始まる。爆発の原因を調査した専門家もこう結論づけた。そして人の存在は技術と切り離してはありえない。原子炉の導入を実現させたアカデミー会員も、原子力発電所を経済的に設計し、建設した人も、そして4月の夜に実験を行った人も。

 人が発明したもので、放射能より恐いものはないだろう。考え始めると本当に恐ろしくなる。私たちが歩き呼吸している大地には、健康に対し致命的なほど危険なチェルノブイリの毒がすっかり染みこんでいるのだ。汚染地区の人々は、放射能という大蛇にとってのウサギのようなものだ。

 昔から代々受け継がれてきた、この地区の生活文化は断たれてしまった。汚染された土地では安全な作物は穫れない。だからその土地は、すべて森や茂みとなる運命にある。でも安全な餌がなければ、安全なミルクや肉はいったいどこから手にいれるのだろうか。このように全てが関係しあい、つながっているのだから。

 現在では科学が、放射能と白血病や甲状腺ガン、肺ガンとのあいだの因果関係を明らかにしている。このことは科学者らがラットの実験で証明した。

 放射能の被害は、食品汚染という形でベラルーシ全土に拡大しているという。でも共和国の人々は、汚染地区で生産されたものを食べている。私たちが今まで気づかなかったようなことが、密かに行われていたのだ。でも今多くの人は、このことに気づきはじめた。(最近、テレビ番組『真夜中の前と後』で確認された。)

 ベラルーシにあるいくつかの食品加工工場は、以前はラベルに住所を印刷していたが、今では、あいまいな「アグロプロム(農工複合生産)」という文字に置き換えられてしまった。また、あからさまな偽造の場合もある。たとえばゴメリで生産されているマヨネーズの缶に、モスクワ製と印刷したラベルを貼っている。今ベラルーシの人は、自分たちが食べる食品を選択することができなくなっている。チェルノブイリ事故が招いた恐ろしい結果について、新たなことを見たり聞いたりするたびに心が痛む。

 この作文を書いている今は春だが、私は秋の庭の情景を思い浮かべている。枝にたわわに実る大粒でみずみずしいリンゴは、キラキラとばら色に輝いている。でもそれは、ただ地に落ちるだけの運命なのだ。このリンゴには、ストロンチウムやプルトニウムがいっぱい詰まっているのだから。

 自分たちの土地が汚染地区とわかった人たちは、どんなに辛かったころだろう。年老いた人の多くは、死ぬまで村に居残ることを決め、それ以外の人たちは、子どものために移住を決断した。詩人のアントニーナ・ホテンコは、チェルノブイリの悲劇を描いた詩の中で、人々の悲嘆にくれた感情をこうあらわしている。

  老婆のもの言わぬ手が スカーフを握りしめる
  白い大地の上には 白血病の悪魔が潜む

 あの悲劇の4月の朝から、8年が過ぎた。国家最高ソビエト(※)は、チェルノブイリ事故被災者保護の法律を採択した。全世界の慈善組織や親切な人々が、わが共和国に大きな援助をしてくれている。でもチェルノブイリの悲劇は、人々の心を痛めつけている。人々は神経質で怒りっぽくなっている。


※最高ソビエト
 日本の国会にあたる

 人々の心が優しくなり、お互いに助け合うようになってほしい。共和国の指導者が食品の品質管理を行い、安全な食べ物が店の棚に並ぶようにしてほしい。放射能に汚染された場所でも安全に仕事ができる方法を紹介するエコロジーセンターを設立しなければならない。このセンターによって、国家的な規模で、発病の最新の予防法が広く伝えられなければならない。そしてセンターが人々に助言を与え、永く生き延びる手助けをしてもらいたい。

 チェルノブイリの死の灰が、私たちの胸をえぐる。この肺は、私たちの痛みであり、歴史であり、忘れてはならない記憶なのだ。

聖なる大殉教者 ビクトリア・コズローワ(女)

聖なる大殉教者 ビクトリア・コズローワ(女)
 第一中等学校10年生 モズィリ市

  ポレーシェの大地に
  ミンスクに
  モギリョフに
  誰かが わざと
  不幸を なしたのか
   ウラジミール・パブロフ

 聖書に「あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする」と書かれています。プリピャチ川上流の核爆発の恐ろしい事実は、被災地区の住民にはすぐに明らかにされませんでした。明らかになったのは、その暗黒の日から数年たってからでした。人々は、子どもや家族の運命への苦悩と不安でいっぱいになり、放射能の灰がばらまかれた土地に、一日でも、いえ、たった数分でも住んではいけないことを、ようやく認識しました。しかし、この恐ろしい真理を認識しても、ポレーシェの人々は自由にはなりませんでした。

 チェルノブイリでの突然の事故は、一瞬にして未来を全部消し去り、鉛のような重さで人々をおさえつけました。ここ数年、子どもが甲状腺腫瘍の病気にかかる割合がこれまでにない高さで記録されています。22倍の高さです。このただのそっけない統計の影に、どれだけの具体的な苦しみがあるのか想像できますか。

 あるポレーシェの小さな女の子の短い人生についてお話しましょう。彼女の父親は、モスクワの病院で、骨髄移植手術の失敗後すぐに死にました。彼はミチノ墓地に埋められました。その数日後には、彼のとなりに名前のない娘が埋められました。彼女は父の死後、モスクワの病院で生まれたのでした。年取った助産婦は赤ちゃんの状態を見て絶望し、言ってはいけないことを口走ってしまいました。「生きてなくて、よかった」と。赤ちゃんは実際長くは苦しみませんでした。名前をもらう時間さえなく、姓だけ記されました。母親の胎内で、4月26日、放射能の「洗礼」を受けたのでした。この名もない赤ちゃん、聖なる大殉教者は苦悩以外は何も経験せず、罪のないチェルノブイリの犠牲者のために祭壇の、父親の隣に永遠の眠りについたのでした。

 ポレーシェの子どもたちは、今でも汚染された土の上を走りまわっています。彼らの多くが、今述べた小さな殉教者と同じように、新郎にも新婦にもなれず、自分の子どもの誕生の喜びもその神秘性も感ずることができず、赤ちゃんの第一声も聞けないでしょう。

 なんと多くの人々の目の前で、ロウソクの火のようにゆっくりと彼らの親類の命が消えていったことでしょう。この思い出にはどれだけの不幸と苦悩があることか!

 ある日、雨の後、草や花を何か鮮やかな白いものが覆っていました。姉が私を呼び、「見てごらん。銀の雨よ」と言いました。その日は暖かかったので、姉は袖なしの胸の開いたワンピースを着ていました。2年後、姉は乳腺ガンで死にました。死の直前までは、彼女は、両親に病名を隠し続けました。

 家族のものが死ぬと、自分のまわりの世界が崩されるような気がします。だけど、そういう気がするだけで、実際には、生きているものを心配する人がいる限り、生命は続くものなのです。しかし、ゾーンは違います。

  そこでは悲しい村々があわれな音をたてる
  そこは 夜ごと 哀愁がうなる
  カッコウの涙が悲しげに
  毎朝 草原で ひかっている
  笑いが忘れられ 冗談も忘れられた
  小道には草が生い茂る
  そのどこか目に見えないところに
  土のうえに
  魂が張り付いている

 打ち捨てられた農家の窓は忘れさられたようにみえます。身のまわりのものを整理しながら、人々はすぐに戻ってこられると信じたので、必要なものだけを持っていきました。これにつけこんだのがよそからきた泥棒です。短い間に貴重なものがすべて盗まれてしまいました。人の不幸が、他人の利益になってしまったのです。このように、悪魔の舞踏会で楽しむことは、キリスト教徒にふさわしいことでしょうか。このような財産は、決して幸福をもたらしはしないはずです。

 地獄の炎に身を投げ出し、家族に別れもできなかった英雄たちの行為をどうして無視できましょうか。彼らは、この作業をすることによって自分たちがどうなるかをよく知っていました。しかし、彼らは怒り狂う核のクレーターの上で、ためらわずに、自分の身を、そして未来を、貢ぎ物のようにその貪欲な胃袋に向かって投げ出しました。彼らは、私たちのために、自己犠牲の炎で自らを焼いたのです。

 ミンスクのフィルハーモニー劇場で、画家のM.ザビツキーのチェルノブイリをテーマにした絵の展示会がありました。長い年月がたっても絵はいつも人類にチェルノブイリの惨劇を思い起こさせるものになるでしょう。私たちの子孫のだれかが、「チェルノブイリのマドンナ」のまるで生きているかのような苦痛で一杯の目を見て、次のような質問をするでしょう。

 「遠い二十世紀に起こったチェルノブイリの事故とは何だったのか。どうして私たちの祖先はこのようなことを引き起こしたのだろうか」と。

時限爆弾 ビクトル・トロポフ(男)

時限爆弾 ビクトル・トロポフ(男)
 第三十河川船隊工養成学校 ゴメリ市

 何のために作文のテーマがこれに選ばれたのか分からない。あなたたち大人は僕たちから何を聞きたいのか。あなたたちは、あなたたちの運命の中のチェルノブイリ、あなたたちの子どもの運命の中のチェルノブイリの意味については、あなたたち自身がよく知っているのではないか。この緊急の課題の作文を全国で書くことによって、何かが変わるのだろうか。僕は、放射能の被害にあった人にこれを書けというのは恥ずべきことだと思う。彼らがどういう生活をしているのか。放射能による障害が彼らの運命をどう変えたか、僕は聞くことができない。

 僕たちはチェルノブイリの事故の後、多くのことを考えさせられた。僕個人も、考えざるをえなくなった。善と悪と正義の問題である。チェルノブイリは、われわれの動物性、無責任性、すべての分野におけるプロ意識の低さをさらけ出した。されにそれは、厚かましさと低い道徳性がどこに行き着くかを示した。僕はV・Pアントーノフの本「チェルノブイリの教訓」を読んだ。その中で著者は「この悲劇は経済よりもむしろモラルの面で起こっている」とはっきりと書いている。チェルノブイリの事故の前には、エゴイズム、無関心、無責任が強まっていたし、指導部には指導力が欠如していたし、不道徳な考えもはびこっていた。「上のほうは何でも知っている。われわれはノルマを達成するだけだ」と。チェルノブイリはその総決算なのである。

 しかし、今日こうしたことはすべてなくなったのだろうか。でなければ、チェルノブイリがふたたび起こらないという保障はどこにあるのか。

 チェルノブイリについて語られることが少なくなり、それに慣れてしまったように僕には見える。僕はまちがっているかもしれないが、古い寓話の中のように、人間は三つのタイプに分けられることを、この悲劇は僕に教えてくれた。第一の人は焚き火によじ登り、第二の人は薪を運び、第三の人は焚き火に手をかざす。チェルノブイリの焚き火のまわりで手をかざすことは、最高に不道徳なことである。

 より古い世代は幸せだった幼児期にたいしてスターリン(※)に感謝していたが、僕はチェルノブイリに対し、われわれに世界を見させてくれてありがとうと言うことはできないし、言いたくもない。子どもたちは外国に出かけ、外国の子どもたちと知り合い、外国の美しいものを見、他人の親切に出合った。このことで、チェルノブイリに感謝することは全くのナンセンスである。そのために悲劇が必要なのか。


※スターリン
 ソ連時代の指導者

 チェルノブイリの影響は今のところ直接僕の運命にはない。僕の健康状態はよい。だが、チェルノブイリの悲劇が5年後のわれわれの運命、われわれの健康にどのような影響を与えるのか、僕の未来の子どもたちには影響がなくなっているのかは、誰にも分からない。だから、僕の運命において、チェルノブイリとは時限爆弾なのだ。暇なとき、このことについて考え出すと全く恐ろしい。これは決して子どもの問題ではない。

 ぜひ、大臣、議員、学者に作文を書いてもらうよう提案したい。しかし、その際テーマは「わが運命、わが子どもたちの運命におけるチェルノブイリ、及び、この問題がなくなるために私は何をしたか」というふうに改めたらいい。

チェルノブイリのジレンマ スベトラーナ・ジャーチェル(女)

チェルノブイリのジレンマ スベトラーナ・ジャーチェル(女)
 第二中等学校

 五感では感じられない放射能は、宇宙、放射性鉱物(※)、その他から発生する。放射性物質が崩壊し、崩壊した粒子が細胞に侵入し、細胞に構造的変化をきたす。これが被曝である。


※放射性鉱物
 核燃料になるウラン235など。

 チェルノブイリの町がつくられたのは、コロンブスのアメリカ到達の3百年前、ビョートル一世(※)によるロシア帝国成立より5世紀も前のことだった。8百年の間、この町とその郊外に住む人々はライ麦やヒエを栽培し、牛や豚を育てた。かつてナポレオンやヒトラーがこの土地の占領を企てたが、計画は失敗した。飢餓や、敵の侵攻、ペストやコレラの流行にも打ち勝ち、厳しい冬をも生きぬき、チェルノブイリの人たちは自らの大地を守り通した。

※ビョートル一世
 19世紀のロシア皇帝

 現在、チェルノブイリは事実上からっぽで、打ち捨てられ、人のぬくもりはなく、ものを言わぬ森が周りを囲むだけである。人類史上最悪の原子力事故によって避難させられた村や町179の内のひとつとなった。

 6つの原子炉を持つチェルノブイリ原子力発電所の建造はソビエト原子力エネルギー政策の誇りであった。1号炉は1977年に完成。2、3、4号炉はそれぞれ1978、1981、1983年に完成した。5号炉と6号炉は1988年に操業を予定していた。チェルノブイリ原発は、核反応を遅らせるために使われていたのが黒鉛であり、水ではなかった。そのために、冷却システム(※)の破壊の際に、原子炉が統制できなくなる危険性が多かった。また原子炉自体は、厚い防護壁に囲まれていたが、鉄筋コンクリートの防護用のドームがなかった。


※冷却システム
 炉心が溶けないように冷やすシステム。

 事故に結びついた実験は、1986年4月25日の朝、始められた。以前からの計画にしたがって、4号炉を停止し実験を行う予定だった。

 この実験は停電で電気供給が止まった場合でも、原子炉の余熱で発電機タービンを動かし、原子炉の冷却水ポンプを作動させるのに何分かかるかを明らかにするためのものであった。

 1986年4月26日、タービンへの蒸気の供給がストップ、それとほとんど同時に、冷却水ポンプの作動が遅れはじめ、原子炉の制御棒(※)に入る水流が急激に減る。原子炉自動停止装置(※)のスイッチは、その時切られていた。短時間で原子炉内の温度が急上昇し、誘導反応が止まってしまう。そして1時23分、チェルノブイリ原発第4号炉で、あの大事故。3秒の間隔をおいて2度の大爆発。最初の爆発は水蒸気の過剰な圧力によるもので、2回目のは、あとに生じた水素ガスによるものだと言われている。燃料棒(※)のジルコニウム(※)でつくられた外皮がとけはじめ、炉内の高圧の水と反応、瞬時に燃料棒は粉々となり、数千トンもある原子炉のカバーは吹き飛び、屋根も突き破ってしまう。死をもたらす巨大な黒雲が上昇していく。


※制御棒
 原子炉そのものや関連システムにトラブルがあったとき、自動的に制御棒を挿入して、中性子を吸収させ、核分裂を止める仕組みになっている。

※自動停止装置
 原発には何らかの異常があると、自動的に停止する機能がある。

※燃料棒
 原子炉に使用される核燃料は、ウラン235を濃縮して円柱棒状に生成している。

※ジルコニウム
 燃料棒は、ウラン235を濃縮したもの数百個を、ジルコニウムを含んだ合金の筒に収めたものである。

 事故当時、チェルノブイリ原発には、176人が勤務していた。しかし、一番被害を受けたのは消防士だった。チェルノブイリの惨事はその地獄の灰で私たちの心を焼き続けている。それは、ベラルーシ、ウクライナ、ロシアの国境地帯、地球全体を不意に襲った。

 恐ろしい不幸の出現という鮮烈な記憶は、いつまでも私たちをおびやかし続ける。この悲劇に終わりはない。それでも私たちは希望を胸にすべての報道をすみからすみまで読む。チェルノブイリの真実を知るために。そしてすべてがもう過去になったのだと確信したいがために。

 人はときに自分をだましたい時がある、生きていくために、自分に嘘をつく。だがそうすることは、チェルノブイリを再び生みだす可能性があるということなのだ。

みんな春の雨を喜んだ ナターリア・カシャック(女)

みんな春の雨を喜んだ ナターリア・カシャック(女)
 カルボビッチ中等学校生徒 ビレイカ地区

 そのころはチェルノブイリについて知っている人は少なかった。今では、チェルノブイリは世界的に有名になった。この言葉を聞くと、心が痛む。それは私たちにとっては、不吉な悪のシンボルなのである。

 1986年の4月。ちょうど、この月に私の家族はへんぴなベレジョク村から、カルボビッチに引っ越してきたところだった。私はこの引っ越しを誰よりも喜んだ。というのは前に住んでいたところには、友だちがいなかったし、引っ越しは多くの楽しいことを約束していたからだ。私は生活がより楽しく、幸せなものになると夢見、期待した。だが、母の顔が不安げだったのを私は見た。隣の家の人と、なにか「放射能」といったようなことを、心配そうに話していた。あとで母は、「ここはチェルノブイリから遠くにあるから心配ない」と、私を安心させた。そのとき、私はまだやっと1年生を終えるところで、私たち子どもにはまったくわからない、すこしもこわいとは感じなかった。そして、非常に残念なことではあるが、すべての人々が、チェルノブイリの危険性を充分理解しているというわけではなかったのだ。

 私たちは、よい天気を喜び、春の雨を喜んだ。雨のあと、空気は新鮮な生気に満ちた香りでいっぱいになる。私たちは水たまりを走り回り、水しぶきがあたたかくやわらかい羽のようにふりかかると陽気に笑いころげた。虹の色を数えるのも好きだった。遊びに夢中になっていた私たちは「大人の社会」で何が起こっているのか知りようもなかった。そのすぐあと、放射能測定器をもった人が村にやって来た。(その仕事をみるのが面白かった。)村の道が急きょアスファルト舗装され始め、ごみは土に埋められ、学校の庭の表土ははがされた。村の店には、今まで聞いたことのない食料品が運ばれてきたので皆喜んだ。どのような珍味が店の棚に並んでも、放射能は減りはしないことを、今では理解できるのだが……。その「特別」の食料品ももう長いこと目にしていない。

 ここカルボビッチには健康な子どもはほとんどいない。だが、汚染地図では、この村は「かつては汚染地区に入っていたが、現在では除染され、きれいになった」とされている。このことで気は休まるどころか、逆に腹立たしくさえなってくる。子どものほとんどに甲状腺肥大が見られるからだ。「アンチストルミン」やその他の薬はあまり効かない。貧血の子どもも多い。私の妹のアリョンカ(エレーナリガの愛称)もよく病気をする。

 ソチや、ヤルタや、ベラルーシのラドシュコビッチのちかくのサナトリウム「ソユーズ」への療養はかなり効果があった。この療養のあとでは、元気になり生気がよみがえる気分になり、体の鈍痛は消え、頭痛はしなくなり、病気をあまりしなくなった。そこでは、多くの友だちができ、おもしろい出会いがあった。療養地の美しい景色や歴史的な場所は、長く私の心に残るに違いない。

 私は外国に行く機会がなかった。もちろん行ってみたいと思うが、私より重い病気にかかっている子どもがいることを知っている。あまりに病気の重い子は外国に行けない。この子たちにとってサナトリウムは最後の機会だ。外国へ行った子どもたちは、学校に大きな問題を持ち込んでくる。この子たちは他の子に対して、同情しないのだ。またある時、私は子どもにたいする教師の不可解な態度に驚いたことがある。

 しかし、すばらしい外国も、南の砂浜浴場も、私の祖国ベラルーシにかわるものはない。私には林のなかに好きな場所がある。その場所は私の秘密を何でも知っている。悲しいとき苦しいときには、そこへ行く。白樺が私との出合いを待っていてくれ、私が落ちつくのを助けてくれ、助言を与えてくれる。私の美しい場所が私の人生からなくなってしまうこと、貪欲なチェルノブイリが子どもの命を奪い、大人の健康を吸い尽くすように、それをも奪ってしまうことを考えると恐ろしい。

 ポレーシェの祖父のところへ行くのをやめた。親は、ここの放射能だけで充分だと言っている。あそこはよかった。なんとたくさんのイチゴが生えていただろう! だが今は……これらの地から人々は離れ、思い出のいっぱいつまったわが家を後にしている。

 ソチで、ベラルーシの子どもたちが「チェルノブイリのはげ頭」とよばれ、避けられることがあったと聞いたときには、不愉快だった。私たちはチェルノブイリの罪人なのか。チェルノブイリは毎日、私の心を痛め付けている。私たちがカルボビッチに引っ越してきたばかりの4月16日以前の幸せな時に、全世界の時計の針を戻せないだろうか。どこに優しい魔法使いはいるのだろうか。どうして急いで助けにこないのだろうか。

 私たちは希望を捨てない。私たちは生きる。私たちは、ベラルーシ、そう、ベラルーシ人なのだから。

森にカッコウが鳴いていた エフゲーニー・ダビードコ(男・16歳)

森にカッコウが鳴いていた エフゲーニー・ダビードコ(男・16歳)
第三中等学校11年生 ドブルーシ町

 今日はわが家のお祝いだ。母が40歳になった。客が、当時一つの大国だったソ連のあちこちから来た。キエフ、レニングラード、ツェリノグラード、ソリゴルスクから来た。山のようなプレゼントを母だけでなく、10歳だったぼくにももってきてくれた。

 なんてすばらしい時だったろう! 大人も子どもも心から楽しんだ。だがお祝いはちょっと悲しいものになった。みんなが中庭でダンスを始めようとするとき、どこからか、突然、嵐がおこり、強い風が吹いてきて、ほこりのかたまりがくるくるまわり始めた。だが誰もそれが悪い兆候だとは思わなかった。そのあと、家の屋根の上にヘリコプターが飛んできて、ピンクや青の紙切れを大量にまいたことをおぼえている。災難を警告したのだと思いますか。ちがうのです。これは、メーデーのお祝いのものだったのです。ぼくたちは喜んで外に出て、ちらしを拾った。放射能の空気を胸いっぱいに吸いながら。指導部以外、だれもこのことを知らなかった。しかし指導部は黙りつづけた。

 やっと事故のことが話されるようになったのは、5月4日だった。村からの強制移住が始まった。バプチン、チェルニボ、ピルキの村々は空っぽになった。移動の車の行列はサピッチ村まで続いた。おそろしい光景だった。家畜は悲痛なうめき声をあげ、女たちは泣き叫んだ。サビッチには、祖母と祖父が住んでいた。夏休みになると、ぼくはそこへ行き、湖で魚を釣り、泳ぎ、森ではキノコやイチゴを集めたものだ。彼らはぼくたちのところに来るのをことわった。彼らはミンスク郊外のソスノビ・ボール村に住居が与えられた。

 夏休みがはじまった。生徒にとって最も楽しく、愉快な時期だ。だが、ぼくはもうサビッチ村には行けない。そこには人もいないし、生命もないからだ。

 「ドブルーシで夏休みを過ごすのもわるくない」と思った。家の近くには森も川もある。泳ぎに行こうとしたが、父は放射能で汚染されているから行ってはいけないといった。ぼくには何も分からず、長いこと川面を見つめて、汚染の目にみえる兆候を探したが、疑わしいものは何もみつけることはできなかった。水は透明できれいで、ぼくに手招きしているようだった。子どもたちは土手に座っていたが、泳ぐものはいなかった。みんな暗い顔をしていた。ぼくは泳がずに家に帰った。6月7日、療養のためにキャンプに送られた。チェルノブイリの子どもたちは当時、広大な祖国ソ連の各地に送られた。

 ある子どもたちはウラルに、ある子どもたちはイングーシに、ぼくはカザン郊外に送られた。ぼくたちは、大事な客のように、パンと塩で迎えられた。キャンプではみんな、すぐ何かの道具で頭から足の先まで測られた。このあと何人かは、いろんなものをもっていかれた。ある子どもは、シャツを、ある子どもはジャンパーを、ぼくはサンダルをもっていかれた。後で知ったことだが、それは放射能で汚染されていたのだった。それらのものは森の中で深い穴の中に埋められ、かわりに新しいものが与えられた。

 休暇は楽しかった。ボルガ川で泳ぎ、カザン市にもいった。ある日、カザン市でカフェに入り、アイスクリームを買った。ぼくたちがアイスクリームを食べている間、空いている席はたくさんあったのに、そのカフェには他の客は誰も入れされてもらえなかった。理由はひとつ「今ここはチェルノブイリの子どもたちがいる」。人々は当時チェルノブイリについてほんの少ししか知らず、彼らはぼくたちを伝染病患者と思って、こわがっていたのだ。

 8月の終わりに、ドブルーシに帰った。新学年が始まった。授業、ディスコや友だちとの遊びなどで時間は飛ぶように去っていった。悲しむひまなどなかった。春、ぼくたちのところに祖母がやって来た。ここに来る前に、以前住んでいたサビッチに行って来たそうである。そこに行ったときのことを、おいおいと泣きながら話した。

 「私がねえ、家に入ろうとすると、コウノトリの家族が屋根の上から、私を非難しているように、見つめていたよ。チェルノブイリの災難はコウノトリをこわがらせなかったんだね。なのに人間は家を捨ててしまったの。もう、いいの。ミンスクでは、どうしても心が休まらないよ。サビッチに帰らなければ」

 ぼくは、また祖母のところに遊びにいけると思い、とても喜んだ。

 一年がたち、夏休みがやってきた。ぼくは母といっしょに、サビッチ村の祖母のところにでかけた。朝、祖母は絞りたての牛乳を壺にいれてもってきた。ぼくが飲もうとして飛びついたが、祖母はくれなかった。「だめだよ。牛乳には毒が入っているから」といった。ぼくはくやしくてたまらず、外に出た。そこは静かで、誰もいなかった。子どもの声も聞こえない。

 村をでるとき、おもしろいことが起こった。皆バスから降りるように言われた。バスは長い時間、ホースで洗浄された、内も外も。放射能を洗い落とすためだそうだ。

 3年後にようやく、チェルノブイリのことについて、大声で話されるようになった。遅ればせながら故郷に、真実、警告、苦痛の言葉がとどくようになった。西側もふくめ多くの国が、ゴメリ州やモキリョフ州の、放射能に汚染された土地の犠牲者たちのたえがたい告白に応えるようになった。ぼくも療養のために、ドイツに行くことができた。ぼくたちはベルリン交代のキャンプに入った。食事もよく、新鮮な空気の中で散歩し、外国の果物も食べた。生まれて初めて、バナナとパイナップルを見た。そして食べた。ベルリンに行って、国会議事堂を見学した。この建物をどきどきしながら見た。1945年にぼくの祖父がここに来たことがある。祖父は勝利者として来たが、ぼくはチェルノブイリの犠牲者としてここに来た。

 ぼくはふるさとの大地での生活に対する異常なまでの不安に襲われた。以前、きれいな空気を吸い、森のなかを歩き、カッコウの鳴き声を聞き、キノコやイチゴをあつめたあの家に帰りたい。

 去年、何度も森にいってみた。一回もカッコウの鳴き声を聞かなかった。これはいいことかもしれない。でないとカッコウが、ぼくがあとどれくらい生きられるか計算してしまうかもしれない。知らないならその方がいい。それと、害をおよぼさない、かわいいスズメもいなくなったことに気づいた。家の窓の下に植えてあったミザクラの木にどんなにたくさんのスズメがせかせか動きまわっていたことか。

 ぼくの気分は悪くない。ただ目が悪くなった。放射能がその原因だろう。ぼくは楽観主義者だ。学校を卒業したら、農業大学に入る。農学者になりたいと思っている。

  いきあたりばったり 生きることはしまい
  生きなければいけないように生きる
  いつも愛する
  友も、生命も、空も愛し続ける
  ふるさとを
  それはベラルーシという

スベトラーナちゃん ニーナ・ラゴダ(女・16歳)

スベトラーナちゃん ニーナ・ラゴダ(女・16歳)
 スターロ・ビソツカヤ中等学校11年生 エリスク地区

 あれは4月のことでした。公園の木々にはつぼみがふくらみ、白樺やハシバミの木には、もう花穂が下がっていました。草は太陽にむかって伸び、きれいな空気はきらめき流れていました。青空高くヒバリが喜びの声をあげ、鳥たちは春のおとずれを喜んでいました。

 隣のステパーノフさんの庭が、楽しく、にぎわっています。アコーディオンが奏でられ、人々の楽しい声も聞こえてきます。ダンスが続き、また歌も続くといったふうにです。外は春で、ステパーノフさん夫妻(ユーリーとバレンチーナ)の心も春なのです。二人に、待ちに待った第一子が、ついに生まれました。一番の喜びである娘が。この喜びと楽しみのパーティは、娘のスベトラーナちゃんの誕生のためだったのです。幸せいっぱいのこの夫婦が、彼女のために家でパーティを開いたのです。二人は、神様がくださった自分たちの血を分けた子どもに見とれ、見飽きることがありませんでした。夫婦の顔は輝き、幸せな笑みが、ずっと浮かんでいました。私たち子どもは、赤ちゃんのベッドを離れられませんでした。そこには、レースの飾りのついた服を着たふっくらしてばら色のほっぺの赤ちゃんが寝ていて、寝ながら小さな口をおかしくちゅっちゅっといわせているからです。だけど、おばさんたちは赤ちゃんにいやなことが降りかかってこないようにと私たちを追っ払ってしまいました。村の全員が、私たちのスベトラーナちゃんの世話をしました。誰でもが彼女を抱きたがり、彼女と遊びたがったりしました。誰もが彼女の「アグー」という初めての言葉を聞きたがったのです。

 ところがとうとうおばさんたちが気にしていたようなことが起こってしまいました。私たち子どものせいではありませんでしたが。私たちのかわいい小さなスベトラーナちゃんが病気になってしまったのです。

 スベトラーナちゃんが1歳になったとき、不幸が彼女を襲いました。暗黒のチェルノブイリが、スベトラーナちゃんの小さな体を、重病にさせてしまったのです。両親が病院や診療所を渡り歩く生活が始まりました。つい最近まで幸せだった夫婦の顔は生気を失い、石のようでした。私たちの心臓は、重たい石がのしかかったようになってしまいました。

 私はいま16歳です。学校を卒業します。私は初めて恋をしました。そのワーシャと私は同じ学校に進むことを約束しました。私の恋は片思いではありません。

 だけど、完全に幸せだと感じるには、何かが不足しているのです。私の目の前には、隣の家の薄暗い窓や、スベトラーナちゃんのお母さんの涙の跡のある顔がたえず浮かんできます。夜、私は不眠症で悩んでいます。私は不幸なスベトラーナちゃんが3回も受けた大きな複雑な手術のこと、打ち克つことのできない彼女の重い病気のことをいつも考えてしまうのです。私は人間の苦悩の意味について悩んでいます。

 また悪い知らせがありました。スベトラーナちゃんのもう片方の目にも悪性の腫瘍が見つかりました。神様、あなたはこの世にいるのですか。なぜこの何も罪のない赤ちゃんにこのような苦しみを与え、なぜこの優しい、働き者の両親にこのような厳しい試練を与えるのですか。

 あざやかな花がさきほこっている青々とした草原の夢を見ました。私とワーシャは手を取り合い、草原を走っています。私たちの前にはスベトラーナちゃんがいます。彼女に追いつこうとするけど、どうしても追いつけません。彼女の手には、カミツレの花束があります。彼女は逃げながら、振り向いては私たちをからかっています。そこに突然、口から火を吹く毛むくじゃらの怪物が丘に現れ、スベトラーナちゃんに黒い手を伸ばし、捕まえてしまいました。私たちはこわくなって、「スベトラーナちゃん。スベトラーナちゃん」と叫んでいました。しかし、返ってくるのは沈黙だけです。草原は、突然灰で襲われ、空には暗い黒雲が現れました。その雲のうえには、たくさんの子どもがのっています。彼らは私たちに手を振っているのですが、別れなのか手招きなのかは私にはわかりません。

 冷や汗で目が覚めると、心臓が激しく打っていました。朝、恐ろしい知らせが届いたのです。私たちのスベトラーナちゃんの命が燃え尽き、永久に消え去ったとのことでした。

 神様。寛容な神様。私は生きたい。愛し、愛されたい。私は不幸やとめどもない涙なんていやなのです。生気のない窓や石のような顔など見たくもありません。私は「黒い」「黒色」そして「チェルノブイリ」といった言葉は嫌いです。嫌いだし、とても恐れているのです。

私は生きる リュドミラ・チュブチク(女・14歳)

私は生きる リュドミラ・チュブチク(女・14歳)
 グルシュコービッチ中等学校7年生 レリチック地区

  魅せられた魂のモノローグ
  僕のふるさとよ 僕の愛するふるさとよ
   ヤコブ・コラス

 こんにちは。私の見知らぬ友よ。私はだいぶ前から、あなたと、考え方や夢を分かち合い、私の14年間の生活、今の悩み、心配や不安などを打ち明けたいと思っていました。私は、なぜあなたと心の内を語り合いたくなったのでしょうか。あなたならたぶんきっと、人々があまりに忙しく、他人のことなどかまっていられないこの時代にも、私の話に熱心に耳を傾けてくれるにちがいないと思ったからです。初めに自分のことから書きます。

 私はリューダ・チュブチクといいます。私が生まれたところは、ポレーシェの沼地と草原の中の、特に目立ったところはありませんが、かわいいちいさな村です。グルシュコービッチといいます。村の名前は、年寄りの言い伝えによると、深い茂みという意味の「グルーシ」からきたそうです。昔、ここには大きな雷鳥の大群が住み、ウラジーミル・モノマフ大公(※)が野牛狩りの際にけがをしたところでもあります。私たちの村の右側はジトミール州、左側はロベンスク州で、どちらも隣の国のウクライナの州です。ウクライナの人たちとは、畑や川、店や学校、草原や森で会います。


※ウラジーミル・モノマフ大公
 12世紀、キエフルーシの大公

 昔、村の周りには、造船用のとても背の高い松がありました。そうなんです。笑わないでください。本当に造船用なのです。ここに来てみませんか。松以外にもいろいろな木があります。森の中には私の好きな場所があります。ジモビッシチェというところです。そこにはカシワの木があります。普通のカシの木ではなく、カシの木の王といわれています。その巨大な根元は三かかえもあり、大きな葉と枝をつけ、青空に向かってそびえ立つ幹を力強く支えているのです。そのジモビッシチェには、スズランが咲き、クルミの木があり、沼地にはツルコケモモ(※)がはえています。そこはまさにコケモモの宝庫なのです。このジモビッシチェを、お金儲けのために切り開こうとする人々の手から守ろうと、彼らの前に立ちはだかった人がいます。林業の労働者でイワン・ズブレイという人です。

※ツルコケモモ
 北半球の寒帯~亜寒帯に分布し、高山から低山上部の日当たりのよいミズゴケの高層湿原に生える常緑小低木。

 かわいい私の友だちよ。私はジモビッシチェが好きです。ひいおじいさんから代々うけつがれてきた、この私の家族のようなジモビッシチァンスキー・モフが好きです。信じられないかもしれませんが、そこには誰も干し草を積んだりはしません。沼地はたくさんあってそれは少し苦みのあるコケモモを盛った深皿の底のようです。秋の初め、沼知のマフ(※)のまわりには、ヤマナラシ(※)が朝風に揺れています。その下には、よく熟れたコケモモだけでなく、足のふみばがないほど、ヤマイグチ(※)の赤い帽子がびっしりと敷きつめてあるのが見えます。その上に立つのはこわい気がします。赤い帽子の衛兵をたたき落としはしないかと思って。

※マフ
 苔

※ヤマナラシ
 温帯~亜寒帯に分布し、亜高山帯の河岸、日当たりのよいやや湿った場所に生える落葉高木。

※ヤマイグチ
 キノコの一種

 森の中をもう少し先に進むと、小さな谷があります。ここの主はキノコのヤマドリダケです。このキノコは根から引き抜かれると、力の限り泣き出します。

 クルミの木の林を通り抜けると、ツルコケモモがびっしりはえた沼にでます。それは、まるでおばあさんの鮮やかな花柄模様のスカーフのようです。コケモモについてはお話する必要はありませんよね? あなたもよくご存知でしょうから。こちらに来ませんか。グルシュコービッチのコケモモの里をみませんか。

 私は、なぜ自分の約束の地について書いたのでしょう。私が生命を受けたこの土地は、私にとっては、始まりの始まり、人生の喜びと、私をとりまく世界との出合いの出発点なのです。なぜ書いたかというと、多分、私の好きな作家の表現を使えば、それは私の「小さな祖国」であり、私のルーツだからでしょう。

「よし、分かった。どうして君は自分の祖国のことを僕に話したくなったの? 何か心配なことがあるの」と、あなたは言うことでしょう。

 去年の夏、私はまた、ジモビッシチェに行ってみました。そこで、キノコを集め、歌をうたい(私は歩きながら歌うのが好き)、いつものように心ゆくまで森の中に溶け込みたかったのです。「こんにちは! 赤い足のコウノトリさん」「あなたは、シダさん、いつ咲くの」私は走り、喜びで大声をあげ、おーいと叫び、歌い、そしてツリガネ草を摘みました。黄色くなってきた草や落ち葉も踏みつけたくありませんでした。私は何かに引きつけられるように、白樺林の中の小道を通り抜け、森の奥へと入って行きました。そこにはキノコのヤマドリダケがいつも私を待っているのです。一つ目が見えました。二つ目は、白樺の落ち葉の下に隠れています。三つ目は……。えっ、あれは何でしょう。真新しい白樺の立て札が立っています。その立て札には「禁止区域! 家畜の放牧、キノコ狩り、イチゴ狩りは絶対にしてはいけません」と書いてあり、その下に、皮肉にも三つ目のヤマドリダケがあるではありませんか。どうしていいか、私には分かりませんでした。キノコを根から抜き取り、捨てました。しかし、すぐまたそれを拾い、土に埋めもどしました。私の手は震えていました。頭をあげてもう一度立て札を見ました。キノコはバラバラになってしまいました。立て札を引き抜き、壊したくなりました。

 ああ、神様。どうしてここに、私のジモビッシチェにひどい匂いのする、地をはうような霧が立ち込めているのでしょうか。どうして。チェルノブイリから直線で145キロもあるのに。

 寛容な神様。何のための苦悩なのですか。私のふるさと、私のポレーシェはイチゴとキノコの豊富な土地です。コケモモも有名です。それが、一瞬にして、全部毒されてしまったのです。

 樹齢数百年もの巨大なカシの木を見、小川を眺め、そのせせらぎを聞き、鳥の歌声を聞くたびに、私は自分の心臓が飛び出し、空に飛んでいってしまいはしないかと心配になります。あまりの壮麗さに耐え切れず、目がつぶれ、音が聞こえなくなり、私のふるさとの自然の美しさが見えなくなりはしないかと心配になります。

 私は大地に飛び込み、抱き締め、口づけし、感謝したいのです。そこには曽祖父たちの足跡がしるされているのですから。

 私たちの生地よ、許してください。ふるさとの大地を愛しています。巨大なカシの木さん、大きいクルミの木さん、コケモモさん、若草さん、私のふるさとのすべての生きるもの。みんな、許してください。私は自然を救うため、大地のため、人のため、できることは何でもします。どんなチェルノブイリも私を邪魔することはできません。私は生きます。私の血筋は続いていくでしょう。

 けれども、恐ろしいことに、チェルノブイリは、私の人生に、私と同じ年頃のひとや、ベラルーシの全ての人々の心と体の中に姿をひそめ、長期間にわたって、困難で、厳しい試練を与えるでしょう。神様、この試練も、宇宙の生きとし生けるものたちの義務なのですね。そのすべてが、神様の光、善、太陽に近づくためのもの、と信じて私は生き続けます。

 チェルノブイリ。それは私たちにとって永遠の苦痛であり、不安です。それは見えない毒であり、放射能から身をかくす場所を探し、療養のために、新しい土地を旅行することを私たちに強います。そんな生活の中では、知らない土地で出会った人々の暖かい心づかいだけが私たちをなぐさめてくれます。見ず知らずの人々が、言葉でいいあらわせず、予測もできない私たちの苦痛を理解してくれました。

 チェルノブイリよ、まだ何かしようとしているのですか。どれだけの未知のことを。喜びの歌は、私の国民から奪われてしまいました。

 ごめんなさい、わが見知らぬ友よ。手紙をこんな悲しい言葉でしめくくって。あなたが私の話を最後まで聞いてくれて、うれしいです。

 ありがとう。あなたが私の想像の中にいてくれて。

 お元気で。

わたしは明るくふるまう マリーナ・ミグラショーワ(女・16歳)

わたしは明るくふるまう マリーナ・ミグラショーワ(女・16歳)
 ダーゼファジョジノ町

 チェルノブイリ。この言葉を聞いてなぜ涙をながす人がいるのか。多くの人はわからないでしょう。私も最近までわかりませんでした。

 チェルノブイリ原発事故によって、今でも人々は病気に苦しみ、あってはならないこともおこっています。

 不幸は私にもふりかかり、私は病気になりました。診断はリンパ腫(※)です。これは重い深刻な病気で、死刑宣告とほとんど同じなのです。私が治療を受けた科学研究所には、このような患者さんがたくさんいました。みんな生きたがっているし、命のために闘っています。このような目にあったことのない人は、私のことを分からないのではないでしょうか。


※リンパ腫
 リンパ節、粘膜のリンパ組織などに見られる腫瘍

 私は16歳になりました。自分の性格が、かたくなになったような気がします。よく、折れた若木や、くずれた鳥の巣、蟻塚を見ることがあります。だけど、それに心をよせるのは、少数の人です。人の挫折させられた運命や病気、苦悩にたいしても、それは同じです。

 今、新聞で汚染地区の生活について多くの報道がなされています。その光景を考えると、とてもつらいです。私には、持ち主に捨てられた農家、菜園、一面に生えた雑草、捨てられた犬や猫が思いうかびます。開かれたままの納屋の戸が、魂を苦しめるように物悲しくきしみ、木々の葉が心配そうな音をたて、人の声はどこにも聞こえません。不気味な重苦しい沈黙がこのような村をおおっています。おそろしいけれど、これがのがれられない現実なのです。大切なふるさとを永遠に捨てざるをえなかった人の苦悩を想像するのはむずかしくはありません。チェルノブイリは人々になんと多くの不幸、涙、被害をもたらしたことでしょうか。

 私はつい最近までベッド暮らしで、壁にあたる日の光をながめながら自分の運命や、ほかの人々の命について考えていました。皆、本当に生きたがっているのです。この一年、私はそれをすごく感じました。私たちはいたるところで死というものに出合っています。木の葉が枝から落ち、蝶は寒さで死んでいます。ある人にとっては、死は、たぶん、待ち続けた平穏のおとずれであり、苦痛からの解放なのかもしれません。だから、病人は自殺することもあるのだと思います。そんな人たちも、きっと人生を愛していたのでしょう。しかし、苦痛に耐えることができなかったのです。

 私と同じ病室の患者さんたちはこう言います。「私たちって、姉妹みたいなものね。いえ、それ以上よ。家族や親戚は時にはそっぽを向くことがあるわ。私たちは2週間家にいて、またこちらに帰ってきて、またもいっしょでしょう」と。こんなとき、同じ病室の仲間たちは、寂しげな笑いをするのです。彼女たちは、私に多くを語らず、私が自分の病気については、知らなければ知らないほどよいと思っていて、元気づけてくれるだけです。私は全てをよく理解できるので、私も多くを語らないようにしています。

 病院のベッドに横になって、闇に光る稲妻にツバメの姿がきらめき、木の葉が震え、すべての生き物が、夏や、暖かさや、太陽を喜んでいるのを開け放たれた窓から見ていると、私は安静にしていなければならないのが少し腹立たしく、目に涙が浮かんでくるのです。急いでふくのですが、涙はどんどんほおをつたって流れ、枕に濡れた斑点をつくってしまいます。私は生きたかったし、生きのびられることを望んでいました。私はもう半年も外に出ず、家族の者としか接してきませんでした。私は、だれにも、私の人生に突然襲いかかってきた苦痛を話していません。今後とも、だれにも話さないでしょう、私にはよくある見せかけの同情はいりません。自分の力で治そうと思っています。ほかに方法はないのですから。みんなには以前と同じような活発な子だったと思っていて欲しいのです。自分の態度、ふるまいを変えたくありません。

 私は、今、家にいてやることがたくさんあります。編み物をしたり、本を読んだり、宿題をしたり、家の掃除をしたり……。ただ、夜みんなが寝静まった時に、一人っきりになると、悲しくなることがあります。でも、そのときは、できるだけ楽観的になるように試みるのです。これがけっこう、うまくいくんです。私の家族はよい家族でいい人ばかりです。わたしはとても家族を愛しているので、私のことで悲しませたくありません。明るくみえるようにし、冗談も言うようにしています。いつもそううまくいくわけではありませんが……。

 私は、将来に希望をいだいています。毎晩、私は、今日より明日はよくなると信じて眠りにつきます。時々夢に、私の幸せだった子どものころのことが現れます。そこでは私を不安にさせるものは何もなく、私は鳥のように、手を羽ばたかせて、空高く舞い上がり、美しさにあふれた故郷ベラルーシをながめることができるのです。この大地が好きです。そしてこれからもずっと好きです。

茶さじ一杯のヨウ素 スベトラーナ・スコモロホワ(女)

茶さじ一杯のヨウ素 スベトラーナ・スコモロホワ(女)
 第十中等学校10年生 ゴメリ市

 ある日、私の美しいベラルーシの上に、チェルノブイリという黒い星が現れた。その黒い星は、人々の心に重くのしかかり、子どもたちの顔にひどい痛みを刻みつけた。1986年、私の大地に何が起こったの。神様、あなたはなぜこんなひどいことを許したのですか。ハティン(※)の死を告げる気味の悪い鐘の音が、ベラルーシの私たちには少なかったとでもいうのですか。それともいつかの血なまぐさい戦争で、ベラルーシの人々の死んだ数が少なかったとでもいうのでしょうか。木から吹き飛ばされた1枚の葉のように、チェルノブイリの風に押し流され、この世をかけずり回ってもどこにも行き場がない人々のことを、神様あなたはなぜ考えなかったのですか。


※ハティン
 ナチス、ドイツに破壊された村の名。今は記念公園になっている。

 打ち捨てられた農家、誰も居なくなってしまった集落がある。でも、それは忘れ去られているのではないのです。ここから出ていった人々は、黒くなってしまった建物や黒い大地、移住者の悲しげな顔や燃え尽きた炭のように暗い目を決して忘れることができないのです。そして、彼ら自身の黒いつらい心の痛みを……。

 神様、あなたが私たちと一緒にいてくれて、私たちからそっぽを向いてしまわないようにするには、一体何をすればよいのでしょう。

  夢を見ること。
  それは、気味の悪い夢だ。
  でも 神様は助けに来ない。

 わたしは小さい川のそばに立っている。古くて大きく枝をはった木。窓が壊れて、人の住んでいない黒い農家を見ていると、私の不安は大きくなる。村には人っ子一人いない。ただ人通りのない道で、風がほこりを巻き上げているだけである。空を見上げると灰色がかってくらい。あたりには底知れぬ静けさが漂っている。突如、遠くにうめき声のようなものが聞こえてきて、私は一層気味悪くなった。あれは何だ。私は不意に、人の魂の声だと気づく。彼らは、カモメのようにうめき泣き、また、泣いてうめいている。彼らにとって憩いや安息はない。人々はかつて、愛し合い、子どもを育て、働き、穀物を育てていた。しかし、今では見捨てられてしまった自分たちの生まれた家を、心静かに眺めることはできない。

 これは単なる夢だと、目を覚ました私は自分を落ちつかせた。しかし、これは単なる夢なのだろうか。私は、さっさと身支度をして学校へ行く。今日の授業は、物理、化学、文学、そして放射能の安全性である。授業では、白血病や死亡についての話はあるが、事故の悲劇自体の話はしない。たとえ話したとしても、果たして悲劇を十分に記述するための言葉があるだろうか。

 家に帰ると、私はカバンを投げ出し川のそばの公園に行く。ソシ川の岸辺に立って、ゆったりとした川の流れを眺め思い出している。「波は逆には流れない。流れと一緒に去ってしまうものだ」そう、あのときはもう戻ってこない。1986年の事故の時まで、私の心の中にあったなごやかなあの喜びは帰ってこない。

 私は、頭から離れられない考えから解放されたくて、図書館へ行く。そこで、最近発行されたベラルーシの詩人の本を頼んだ。司書が、私に渡してくれた本は「ニガヨモギの星(※)」というものだった。ここでもまた重苦しい考えから逃げられないことを予感しつつ、一番遠い隅の席に行って読み始めた。白血病で死んでいく小さなアリョーシャに同情して、私は泣いた。


※ニガヨモギの星
 聖書「ヨハネの黙示録」から取った題名。

 私はそれが起こった日のことをはっきりとは覚えていない。私にとって、それまでの4月の終わりはいつも楽しいものだった。というのは、4月の最後の日が私の誕生日だからである。私は誕生日まであと何日と指折り数えながら、羽が生えたようにうきうきと飛び回っていた。そのあとの日々もすばらしかった。太陽が輝き、栗の花は満開で、私たちはその下を軽いワンピースを着て走り回った。

 まもなく、雪崩のように、恐ろしい知らせが押し寄せてきた。避難だ。パニックが始まった。ゴメリは全滅したかのようだった。通りを見ていると、町には、父と母、祖父と祖母、それに私以外に誰もいないような気がしてくる。人々は歩かず、できるだけ外にいる時間を少なくするために走っていた。気温が高いにもかかわらず、家の換気用の小窓はしっかりと閉じられたままだ。

 「放射能」は人を殺す、恐ろしくて目に見えないものなのだ。

 しばらくして、私たちは、ヨウ素を飲まなければならない(※)と聞いた。ただ、どんなヨウ素をどうやって飲めばよいのか誰も知らなかった。いろんな専門家がそれぞれ違った助言をした。今では想像もできないことだが、薬局では両親は、小サジ一杯のヨウ素を1日に3回飲むように言われた。本当はたったの数滴でよいのだ。私にとって幸運だったのは、父が茶さじ一杯のヨウ素を水に溶かしたので、私の胃のやけどは、一緒に入院していた他の人ほどひどくなかったことだ。


※ヨウ素を飲まなければならない
 子どもの甲状腺に溜まる人工放射能ヨウ素131が蓄積される前に、甲状腺にヨウ素剤を満たす目的のために使われた。事故の起こる直前に飲ませるのが一番よいといわれているが、いつ事故が起こるかも分からず、また事前に飲ませ続けるとヨウ素過多症という病気にかかるため、その適切な使用は難しい。また、セシウム137、ストロンチウム90など、ヨウ素131以外の人工放射能の防護にはならない。

 誰もがこの放射能地獄から脱出したがっていた。鉄道の駅は大混乱になった。人々は列車を待って何日も座り続けていた。列車が来ると、人々はそれに向かって突進していった。祖母はそれを見て、戦争のころを思い出すといった。実際、まさに戦闘だった。命のための戦闘であり、親戚と自分の子どもの健康のための戦闘であった。

 学校の生徒はどんどん減っていった。担任の先生も私たちを見捨てて去った。そして、かわりの先生が来た。夏休みが始まると、母も休暇を取り、母と私はアナ・パへ行った。医者が私を南へ連れていくよう勧めたからだ。母はピオネール・キャンプの保母になり、そのキャンプで私たちは2か月を過ごした。私は太陽の光に当たることを禁じられていたので、海で泳いだり、黄金の砂浜に寝そべっている子どもたちがうらやましくてたまらなかった。私は浜辺で色々な色の石を集めたり、童話に出てくるようなお城を砂で作ったりしたかったのに。

 休暇のあとも、私は丈夫になったとは感じられず、いつもけだるく、学校も休みがちになった。2学期には1週間しか学校に行けなかった。大人たちは、私に何が起こったのか分からず、とても心配した。冬休みになると祖母は、彼女の妹がいるモスクワへ私を連れて行ってくれた。私たちは、そこで医科大学病院へ行った。大学病院では、私の血液の全面的な検査が行われた。私は病気であり、血液の成分の形が変わっていることが明らかになった。医者は、せめて1年間は今住んでいるところを出て、キャビアを食べ、新鮮なザクロジュースを飲むようにアドバイスした。彼のアドバイスは、私の家庭にとって不可能なことであった。

 故郷ゴメリに帰ると、私は州立病院に登録させられ、毎週のように検査をされた。なんと恐ろしい体験だったことか。病院へ行き、血をとられるのをじっと見ているのだ。音楽の授業の時、注射針で刺し傷だらけになっていた指がものすごく痛んだ。音楽学校をやめなくてはならなくなった。これは短い間のことだったから良かった。今、これまで耐えてきたことを振り返ると、悔しさと腹立たしさで胸がしめつけられるようだ。何人の子どもたちが、医者の怠慢や無知、専門技術の欠如で死んだのだろうか。彼らは、ここで何が起こっているのかを知らず、そのことを考えることさえしたくなかったのだ。

 悔しさで胸がいっぱいだ。多くの親戚や知人の命が消えていった。私の叔母と叔父、知り合いの若い女性が死んだ。私の父も病気がちである。彼は事故のあと、汚染地区へ出かけていき、住民に食料を供給する仕事に携わったからだ。

 八方ふさがりのこの恐ろしさから解放されるためには、何を食べて、何を飲めばよいのでしょう。

 まもなく母が帰ってくる。今日は「棺桶代」をもらう日だ。人々は汚染地区住民への補償金をこう呼んでいる。母は泣きながら帰ってきた。まだ35歳だった母の友人が死んだそうだ。母は、黒い服に着替えて墓地に向かった。その墓地はまもなく「過剰」のために閉鎖されると聞いている。黒ずんだ農家、黒い大地、他へ移っていった住民の悲しげな顔や燃え尽きた炭のような暗い目が思い出される。

 ニガヨモギの星、ここにヨモギは多くなかった。しかしそれでも、ニガヨモギの星はベラルーシの上空に現れ、全ての人々に苦しみを与えた。永久に免れることのできないであろう苦しみを。

  ふるさとの美しい風景よ。
  おまえは、私の悲しみ そして喜びだ。

 悲しみはもういらない。一滴だけの喜びでいい。私と私のベラルーシの人々の上に……。

プロフィール

子供たちのチェルノブイリ

Author:子供たちのチェルノブイリ
昔、こどもたちのチェルノブイリの作文集を選ぶボランティアをしました。この時の衝撃は今も心に残っています。
 連絡先
 ohanamoon@gmail.comまで

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QR
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。