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ぼくの町へ帰りたい マクシム・パシコフ(男・14歳)

ぼくの町へ帰りたい マクシム・パシコフ(男・14歳)
 第二中学校7年生 オシポビッチ村

 ヤッター! 僕の弟が生まれた。1986年4月26日、よく晴れた明るい日だった。暑かった。そのとき僕は5歳だった。僕はこの日のくるのを、どんなに待ち望んでいたことか。父と母と僕と三人で、指折り数えた日々、赤ちゃんの名前まで考えたほどだった。なぜか知らないが、みんな男の子が産まれることを知っていた。

 この日、僕は初めての体験に興奮しきっていた。喜びのあまり、病院の窓のところで片足でぴょんぴょんはねていた。みんなは弟がすりかえられないか心配していた。生まれたての赤ちゃんはみんなそっくりだったから。僕は弟の名前をブドゥライエムにしたかった。というのは、その頃、テレビ劇で「ジプシー」というのをやっていて、僕はこの名前をとても気に入っていたのだ。なのに、どうして父や母はブドゥライにしなかったのだろうか。

 まる一週間、母は病院に入院していた。その間、僕は毎日病院に走って通ったものだった。弟の顔を見たくてたまらなかったのだ。だから母がやっとアルトゥーシャ(こう名づけられた)を家に連れて帰ってきた日、僕はとてもうれしかった。だが、突然に悲劇は始まった。

 その頃の僕はどうしても大人を理解することができなかった。大人たちは顔つきが暗くなり、みんないつまでも同じことばかり話していた。僕は、たびたび、美しい、歌うような言葉を耳にするようになった(僕にはそう聞こえた)。「ラジアーツィア(放射能)」である。みんなそれを恐れた。しかし誰もそれを僕に見せることはできなかった。のちにもうひとつ記憶に刻みこまれた言葉がある。それは「エバクアーツィア(避難)」である。この言葉は気に入らなかった。第一にそれはかえるの鳴き声にそっくりだったし、第二に、どこかに行ってしまうことだと聞かされたからだ。僕はどこにも行ってしまいたくなかった。しかし、この放射能からの避難は現実になった。友だちはまったくいなくなってしまった。外には誰もいなくなり、町はすっかり寂しくなってしまった。母は砂遊びを禁止した。ラジアーツィアだ。一日に何回も手を洗った。ラジアーツィアだ。花にも草にも触ってはいけない。ここにもラジアーツィア。壁と床からじゅうたんがはぎとられた。ここにもラジアーツィア。床は洗浄の水が乾ききることはなかった。知らないおじさんが何か器具をもってよく家に来た。おじさんは何かを測っているようだったが、僕にはまだその意味が理解できなかった。僕はおじさんのあとについてまわるのが楽しみだった。でも、おじさんが帰ったあと、母の顔はとても悲しげになった。ある日、アルチョムが病気になってしまった。医者は診察したあと、小さい声で、多分恐怖からだろうが、「ラジアーツィア」と言い、母は母乳をやるのを禁止された。そのかわり、レニングラードから粉ミルクが送られてきた。町では牛乳をしぼることが禁止されていた。牛も、人と同じく、呪いのラジアーツィアに苦しんでいたのだ。

 太陽は暑く輝いている。木々の葉は風に音を立て、花は咲き乱れている。だが、チェリコフの町の通りには人もなく、静かだった。けれども僕たちはまだそこに住んでいた。

 母の具合も悪くなった。ちょうどその頃、父はゴールキの農業アカデミーの講座に参加することになった。父は行くのを渋ったが、母は送り出してしまった。僕についていえば僕のきらいな「避難」という言葉に直面しそうな予感がしていた。町に残っている子ども全員が郊外のレチェツァ村の幼稚園に集められた。採血するためである。僕は非常にこわかった。子どもたちはみんな泣いていた。痛さからよりこわさから泣いたのだ。母親たちも泣き叫んだ。僕は、生まれてからたったの3週間しかたっていないアルトゥーシャに大きい注射器をささないようにたのんだ。今でも、この時の光景が目に焼きついている。

 分析の結果がわかると、母はクリモビッチのおばさんの家に行くよう僕を説得した。放射能はそこまで飛んできてはいないという。僕は絶対に行きたくなかった。母や弟と離れたくなかった。でも母が泣いて僕に頼むので、僕はとうとういうことをきいた。何日かして、おばさんが僕を迎えに来た。僕はおばさんのところから幼稚園に通った。おばさんはいい人だし、大好きだ。でも僕は、家が恋しくてしかたがなかった。しばらくして、クリモビッチも放射能に汚染されていることがわかった。瞬く間に時は流れた。母がどこかに出かけて行った。後から知ったことだが、母は移住先を探しに行っていたのだ。だが、なかなか決まらなかった。僕たち家族は、3年後に、ようやくオシポビッチに引っ越すことができた。アパートの部屋も、家具も、そしてもっとも大切な僕の友だちもチェリコフの町に残して。

 現在、僕の家族は、アパートに住んでいる。弟は2年生になった。新しい友だちもできた。しかし、僕は幼い頃過ごした僕の大好きな町が恋しくてならない。夢に友だちがよく出てくる。イリューシャ、隣のユーラ、リューダ、ワーリャ。放射能が早く去ってしまい、僕の町、僕が住んでいたロコソフスキー通りに帰りたい。
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私のかわいいチュウリップ キーラ・クツォーバ(女・15歳)

私のかわいいチュウリップ キーラ・クツォーバ(女・15歳)
 ホイノ中等学校10年生 ピンスク地区

 私は今、15歳だ。作文を書きながら「運命」のことを考えている。

 1986年のあのいまわしい事故は、多くの人たちの運命をはるかに苦いものに変えた。しかし一部の狡猾な大人たちは自分の運命を機敏に転換させることができた。彼らは人の不幸を利用し、それで自分の腹を太らせたのである。

 子どもたちはどうだったのだろう。1986年12月に生まれた、私のいとこのマーシャは、一歳になっても立つことができなかった。股関節に骨がなかったからだ。このことをピンスクの医者は認めようとはしなかった。親の思い過ごしとされた。おばさんだけがマーシャの不幸をわかっていて、医者の指示を完全に実行し、辛抱強く回復を待った。神様、ありがとう。マーシャは普通になった。マーシャはこのことを覚えていないけど、チェルノブイリが始まった年、彼女が生まれた年に、彼女の運命がこの様にして始まったことを彼女は知っている。

 1986年の夏、カザフスタンの学校で働いている母は、夏休みに私を連れておばあちゃんが住むベラルーシのビチェプスク州に遊びに行った。そのときはまだ、チェルノブイリの被害は明らかにされておらず、ビチェプスクの町の人たちは、放射能はここまでこなかったようだと話していた。町は静かで穏やかだった。私たちはイチゴやリンゴや野菜を疑うこともなく食べ、当時は誰も病気になる人もいなかった。

 事故についても「ベラルーシ人」の不幸として、話すことを嫌がっていたようだ。チェルノブイリはここから遠いし、ウクライナのどこかにあるという程度だった。でもその不幸はすぐそばまで忍び寄ってきていたのだ。母も親戚もみんなが心の底では不安と恐怖を抱いていたものの、何も知らされないままでいたのだ。

 私の住んでいたカザフスタンのプリオゼルスク市は、90年代まで閉鎖軍事都市(※)で、町の周りには様々な地下・地上発射ミサイルが配備してあった。このプリオゼルスクの大人たちは放射能の人体への影響を、その当時でも良く知っていたのだ。ここに勤務する軍関係者は早めに年金をもらい始めるなど様々な特権を持っている。チェルノブイリのリクビダートルとは全く違っている。母は当時、母の弟のことを心配していた。彼はウクライナのスラプチチ町の建設に派遣されたが、原発事故直後その町はウクライナ避難民のための町だったのである。


※閉鎖軍事基地
 ソ連時代、地図にもない秘密軍事都市があった。

 こうして、私たちのチェルノブイリの日々が始まった。遠く離れたカザフスタンでベラルーシからのニュースに耳をそばだてた。母はベラルーシからの報道、被災者への助言を期待した。だが、ミンスクは沈黙し、モスクワも沈黙し、何の助言も得ることはなかった。

 86年以降、母と私は2回ベラルーシに行った。おばあちゃんは急速に老け、おじさんはスラプチチの建設から戻ると咳をするようになっていた。

 マーシャは今でもいろんな病を「花束」のように抱えて成長している。

 ささいなことかもしれない、でも私には多くのことが変わってきているように思えてならない。人々は寂しげになったり、目つきが厳しくなったり、粗野になってきているようだし、子どもも同じだ。療養と名付けた外国旅行で手に入れた中古の品物を自慢しあったりしている。私にはこんな機会は決して巡ってこないだろう。でも私の「運命」は私に様々な体験を運んでくるのである。

 ソ連邦崩壊に伴いプリオゼルスクが解放され、父が軍隊を退役した。その後父は何度も仕事を変えたが、どれも長くは続かなかった。

 母は教師を続けたが、よく病気をするようになった。人々は大量に町から出ていくようになり、学校の生徒の数も減った。カザフスタン政府は事実上モスクワの直轄都市であったプリオゼルスク市はいらないと言った。ロシア政府も私たちの生活の援助はあまりせず、状況はどっちつかずのものになっていった。

 町の大きな近代的な建物からは、板の一枚まで持ち去られ、街並みは窓を板で十字に釘付けした家が増えていった。

 チェルノブイリのゾーンから脱出する人たちが、私たちと同じように自分たちの家の窓を釘付けにしている写真が、地元の新聞で報道されていた。いろんなことで疲れきった両親は町を出ることにした。でも、どこへいくか引っ越しの結論が出ないままに学年が終わり、母は休暇をもらった。母と私はベラルーシにこのまま長く留まるのではないかという予感がしていたが、やはりそうなってしまった。失業中の父が遅れて私たちに合流し、新しい場所での生活の責任がすべて母の肩にかかってきたのである。

 でもここベラルーシでもうまくいかなかった。母は新しい職場をみつけ、なんとか住居も手にはいった。しかし父の仕事の問題は未解決だった。ここで職を得るのがおおよそ不可能であろうことは分かっていた。

 父はピンスクのおばさんのところに行った。今、私はピンスク地区のそう大きくない村ホノイに住んでいる。予測もつかない放射能汚染の不安にかられながら、ここにたどり着いてしまったような気がする。両親は悲しみながらも、ホノイでの居住権をとり、「棺桶代(※)」をもらうようになった。それは私にも支払われる。保証金は定期的に支給されるが、お金をもらい忘れると、商店のそばの塀に長いリストが張り出される。このリストで、まだ保証金を受け取っていない人たちを知るのだが、戦死者の名前を並べた「記念名板」を思い起こすので、私は足早にそこを通りぬけることにしている。


※棺桶代
 汚染地区住民の補償金のことを人々はこう呼ぶ。

 他にも村民への補償として、私たち生とに朝と昼2回の食事が与えられる。内容は良かったり悪かったりであるが、これは多くの人にとって大きな恩恵だと思っている。

 半年に2回健康診断をうけたが、結果が悪く、両親にとっては驚きであった。私はこの数値がどれほどひどい値であるのかを本当には理解できていない。しかし私が正常ではないということがはっきりしたのである。去年の11月の検査は異常なかったものの、3月の検査結果は悲しいものであった。ホノイに住んで1か月たつごとに検査結果が1ポイントずつ悪くなる。父は恐ろしい速さだと言った。そのうち、ここに生まれ育った人に追いつき、追い越すことになってしまいそうだ。私のことを心配して、母の方が病気になるのではないかと心配している。

 初めてホノイの村に着いたとき、私は驚いた。家のそばにはただ雑草がはえ、花壇にも雑草は伸び放題、道はゴミの山だった。庭には赤茶けた枯れ木が立っていた。隣のテクリヤおばさんが話してくれたけど、この家は避難民がつぎつぎに入れ替わりに住み、長く居つづけることはなく、3年以上住んだ人はないそうである。

 春、私たちは花壇の手入れを始めた。私の好きなチュウリップ、スイセン、グラジオラス、アスターの花が咲くのを楽しみに……。

 父はスタプロポーリエからトマト、キューリの種を買ってきて植えた。じゃがいもをコルホーズに売るのだとはりきった。私たちは生きられるのだ。庭は一新した。

 しかし本当のところ、状態は悪くなる一方で、学校でチェルノブイリの子どもたちを見ても希望など感じられない。現在すでに警告されているように、将来どうなるかはまったくわからない。信じたくないが……。

 チェルノブイリ事故のあとの暮らしは、格言にある「昔のことは、昔のまた昔。そんなことは忘れてしまった」とはいかないだろう。黒い放射能は、単純には過去のことになってしまわないのだ。

 私と母は最近、家のそばの草を引き抜いた。引き抜き、掘り返し、放り投げ、そして一カ所に集めた。疲れは感じなかった、むしろチェルノブイリを精算した気分だった。

 母とケンカしたとき、母は「おまえの運命は泣いている猫と同じようなものだ」と言った。ママ、あなたが正しいかもしれない。だが私は生き延びてきた、これからも……。私の過去はチェルノブイリの事故そのものの体験だ。

 窓の外に目をやれば、明るい太陽が青空に輝いている。私の花壇には赤いチュウリップが咲いている。太陽の光に暖められ、とうとう開いたチュウリップの季節。黒い翼がおおうホノイの村で咲いた初めての花チュウリップ。お前に誠意があるなら、いつまでも咲き続けておくれ、自由に、楽しく、美しい空の下で。幼い日、カザフの草原に咲き乱れていた輝く花を、私は忘れはしない。「神様、私たちに健康をさずけてください」と、心の中で叫ぶ、そして祈る。私の美しいチュウリップよ。いつまでも生きておくれ、そして人々に喜びを与えておくれ……と。

 P・S この作文は先生に見せていません。地区にも送りませんでした。私が自分一人で決めました。と言うのは、この作文は私が個人的に体験したことを書いた私的なものだからです。

 尊敬する選考委員のみなさま、直接ミンスクに送ります。今、私にはどんな希望もなぐさめもありません。私と同世代の数千の子どもたちの運命をチェルノブイリが暗くしているからです。彼らの中の何百人かが、このコンクールで考えを整理して意見を述べることでしょう。彼らの成功と健康を祈ります。

月の光の中で ナターリア・ビノグラードバ(女16歳)

月の光の中で ナターリア・ビノグラードバ(女16歳)
 第三中等学校10年生 ルニンツァ町

 8歳の私には、私たちを襲った不幸を完全には理解できなかった。

 事故について初めて知ったのは、2日たってからだった。そのときはそんなに恐ろしくもなく、自分たちの国ではなくて、ほかの国の出来事だと思った。私たちはチェルノブイリ原発がすぐ隣にあるとは思ってもいなかった。

 日を追って、テレビやラジオで不安な情報がどんどん入ってきたが、もっと多かったのはいろいろな噂だった。私の幼い心に初めて恐怖が生じたのは、母がある時仕事から帰ってきて、どうやら町から避難させられるらしいと泣きながら話したときだった。

 私は、まだその意味がよく分からなかったが、母が泣くのは何か怖いことがおこったということを意味していた。その時に私の心配のない幼児期は終わった。土の上に座ること、はだして草地を歩くこと、畑でそのままイチゴを食べること、日光浴をすることは、すべてしてはいけないことになった。毎日、禁止事項が増えていった。

 私はよく病気をするようになった。以前は「悪い」血液の病気や甲状腺肥大といった病名を聞いたことがなかった。しかし、統計報告には、私たちの町の住民の健康状態に異常はなく、心配されるようなことは何ひとつないと、全く事実と違うことが書いてあった。最近では、診療所に行けば、患者が増えていることが一目でわかる。単純な風邪もひどくなりやすく、死亡にいたることが度々起こるようになった。

 毎年夏がくると、家庭で大きな問題になるのは、子どもたちをどこで療養させるかということである。最初のころは、出かけるのがうれしかったが、だんだんいやになってきた。家にいたくてたまらない。誰かにしばられ、急いでどこかに行くこともない。決められた時間になると食堂に走り、与えられるものだけを食べ、すべて日程表どおりに行動する。こんなのはいやだ。ここはこんなに美しい町ではないか。静かで、平和だ。そばには、すばらしい森、プリピャチ川、すばらしいベーロエ湖がある。よい休暇を過ごすためにはまだ何が必要だというのか。ところが、すぐ目の前には、汚染ゾーンがある。

 1991年9月、学校が、ドイツに私を送ってくれた。私はそこに27日間滞在した。たくさんのものを見、たくさんのことを知った。バルチック海と、小さな町ヘリングスドルフで休暇を過ごした。この町は美しく、清潔な町だった。私たちは泳いだり、日光浴を楽しんだり、遠足にもでかけた。私たちのグループはこの町の小学校を訪れ、そこでドイツの教育システムについて興味深いことをたくさん知った。しかし何よりも思い出に残っているのは、星を見に行ったときのことだ。小さな天文台には天体望遠鏡があり、それで月を観察した。そして初めて、写真ではなく自分の目で、間近に人工衛星を見た。

 もちろん、この旅行は私にとって、忘れがたいものとなった。私はつい最近まで敵だった人々の生活や文化を知った。私の祖母は、ドイツの強制収容所の捕虜だったのである。祖母は無理矢理ドイツにつれてこられたのだが、私はそこに休暇をとり、療養に行く。なんと矛盾したことだ。私とおなじように星を見るのが好きないい人たちが、私を受け入れてくれた。彼らは私たちのこと、私たちの健康を非常に心配してくれた。すべてがすばらしかった。しかし、わたしの故郷の町のほうが楽に息ができる。たとえ放射能で空気が汚染されていても。

 私たちが不幸にみまわれたことを知ったあのいまわしい時から、8年がたった。時は最良の医者であり、苦痛は少し和らいだ。親たちから教えられた禁止事項を、少しずつ忘れようとしている。だが、私には忘れられない写真がある。全員が立ち退いた村だ。家の窓は破れていた。一人ぼっちのコウノトリだけは、自分の巣を離れられない。そのすぐそばには、「居住禁止」の立て札が立っていた。私は泣いた。時間が止まったように感じた。むしょうにさけびたかった。「チェルノブイリよ。お前は何ということをしたのだ」と。

 神様。私たちに大きな苦痛をもたらしたチェルノブイリの悲劇が、再びおこらないようお願いします。太陽が輝きますように。どんな禁止事項も知らないで、子どもたちがほほ笑みますように。お母さんたちが、もうこれ以上、嘆かなくていいように。

最後の授業のベル エレナ・クラジェンコ(女)

最後の授業のベル エレナ・クラジェンコ(女)
 グリニッツ中等学校10年生 モズィリ市

 チェルノブイリ。それは地球のほんの小さな点。しかし、1986年4月以降、世界中の人たちがこの地名を知ることになりました。

 私が幼いころ住んでいたベロベレージスカヤ・ルドニャ村は、チェルノブイリ原発の30キロゾーン内にあります。チェルノブイリ事故は、家族や多くの人々に苦痛をもたらしました。私は人々がどのようにして家を打ち捨てて出ていったのかを実際に自分の目で見てきたのです。

 私たちは生まれた家を捨て、非汚染地区に脱出するしかありませんでした。その後、多くの村人たちは色々な病気で入院し、何人かは死にました。

 私たちの村の習慣では、誰かが死ぬと最後のお別れをするために、どこにいようと集まってきて葬式を行います。今でも死者がでると、皆、脱出した村に帰ってきます。母なる大地へ埋葬をするために。そして埋葬がすむと、それぞれ自分の住んでいた土地へ立ち寄るのです。でもその土地は、いったい誰の土地なのでしょう。いまやそこには何もありません。家自体が埋葬されているのです。取り壊されなかった家も悲しい様相を見せています。窓は破れ、ドアは外され、家の中はすべて壊され、略奪され、垣根には雑草がおいしげっています。チェルノブイリの事故の前は、人々の話し声、笑い声、泣き声であふれていたのに、今は想像することもできません。

 チェルノブイリの悲劇は、ベラルーシ全体におよんでいます。今、私たちはグリッツという美しい村に住んでいます。快適な家も与えられました。しかし、私たちの村ではないのです。私は以前住んでいた自分の家に帰りたい、大好きだったペチカのある家にもどりたい。私は10年生です。学校にも通い、だんだんと新しい土地にも慣れてきました。しかし、ここでもチェルノブイリは私たちをつかんで離さないのです。

 1年前、新しく友だちになった同級生のマイヤちゃんが死に、学校の人たち全員で埋葬に参加しました。葬列が学校のそばを通った時のことです。突然、いつも授業開始の時に鳴らされるベルが鳴り始めました。アッラ校長先生が短かったマイヤちゃんの人生のために、最後の授業のベルを鳴らしたのです。

 彼女の死から1年が経ちました。マイヤちゃんとは今も一緒です。机も置いたままにしていますし、マイヤちゃんの誕生日には花束をつくって彼女に会いに行きます。チェルノブイリは、私たちの生活の中にしっかりと住み着きました。医者の検査データもこれを物語っています。ゲレンジック、モルダビア、ウラジーミル、キーロフ、グロドネン、アナバ……私たちは、療養のために数々の土地を訪れました。医者の診断では、11人の同級生のうち健康といえるのはたったの2人です。私たちの身体の全機能が慢性的な病気に犯されています。

 私は信じたいのです。私たちの世代が生き延び、いつかチェルノブイリの被害を取り除くことを、そして希望を未来へとつないでいけることを。

空に鳥の震えるような声を聞く ナターリア・コジェミャキナ(女)

空に鳥の震えるような声を聞く ナターリア・コジェミャキナ(女)
 第三中等学校11年生 スベトロゴールクス町

 幸いなことに、私の家族や知人の中に事故処理作業に参加した人はいませんでした。私たちの住んでいたところは、役人さんの言葉をかりれば「放射能の許容線量(※)以下」のところでした。だけど、放射能は、許容されるようなものでしょうか。放射能によって私の家族の中に病気が侵入しても、だから病気も許容されるなんていうのでしょうか。


※許容線量
 原子力によるメリットを考慮し、人体が受けてもしかたないとされる量。この値は、純粋に人体の安全が考慮されているのではなく、経済や各国の政策がかなり関与している。一般人では年間1ミリシーベルト。原子力等作業従事者では年間50ミリシーベルトとなっている。

 チェルノブイリ原子力発電所で事故が発生した直後、「チェルノブイリ」の言葉が、「大惨事」、「悲劇」、「苦痛」、「涙」の代名詞になることを、いったい誰が予想したことでしょう。

 放射能は目に見えず、色もなく、匂いもありません。炎のように夜空に舞い上がり、空の見えない空気の流れに乗って、春の薫りにあふれた山河に広がっていきます。しかし、そのことをわかるようになったのは、もっと後のことでした。

 事故処理が一段落して、リクビダートルたちが、家族や、両親や妻のもとに帰ってきました。作業からもどった夫や息子たちは恐ろしい病気に犯され、まるで老人のようでした。作業に出る前は、若くて、健康で、すばらしい未来を夢見ていた人たちだったのに・・・・・・。

  乾いた熱風 たとえそれが毒されていても
  吸わずには生きられない
  病人だって吸う
  病院も薬局もあてにはならない
  病人を救う知恵などもっていないから

 私たちが大惨事を初めて感じたのは、数十、数百という村が鉄条網で囲まれ、広大な土地が「ゾーン」と呼ばれるようになったときでした。ふるさとには「汚染地区」という名前がつきました。人々は恐怖の中で、今までの生活の基盤をすべて捨て、わずかな希望をたよりに、知らないところへと脱出しました。でも、どこへ行ったらましになるというのでしょう。

 ここスベトロゴルスク地区にもゾーンから移住してきた人はたくさんいます。みんなは、移住の時に指導者が約束してくれたことを信じていました。人間的な水準の生活を期待し、人の親切を期待し、それがふるさとへの郷愁に勝てると期待しました。しかし、そのとおりにはなりませんでした。じめじめした家、小さすぎる納屋、不十分な物資的支援、援助の不足、そしておまけに「お役人仕事」・・・・・・みんなこんな目にあいました。

 ブラーギン地区出身のマリア・ミロンチックさんはこう言いました。

 「クラスノフカ村の人たちはいい人ばかりよ。でも、しょせんうちの田舎の人じゃないのよね。やっぱり自分の家のほうがいいわ。たとえ土地は病んでいたとしてもね」と。

 このようにして、たくさんの家族が行列をなして、帰っていきました。ゾーンへの、閉鎖された村へと。そして今、何千人もの人が放射能という目に見えない死のベールに包まれて生活しています。そこに住む母親たちは涙ながらに、自分の子どもの目を見つめます。まるで、自分やまわりの人たちの不幸が自分のせいだと責め、許してくださいと言っているかのように。

  私は空高く 鳥がかん高い声で鳴くのを聞いた
  チェルノブイリの不幸の日々を予告したのか
  だが親たちにはわが子を守るすべはない

 疑問だらけです。どう生きればいいのでしょう。外で遊んではだめ。森に行ってはだめ。川で遊んではだめ。イチゴを摘んではだめ。幼い子どもにこれをどう言い聞かせたらいいのでしょう。みんなだめと言えば、子どもらしい生活はできなくなってしまいます。これではまるでカゴに閉じこめられた鳥です。

 私たちの地区で、もっとも汚染されている場所の一つが、コロレバ・スロボダ村です。そこの中でも特に汚染のひどいのが小学校の校庭です。放射能を測定する係官の線量計(※)は針が振り切れて使いものになりませんでした。それにもかかわらず、休み時間には子どもが校庭をかけまわり、砂遊びをしています。この学校では今でも授業が行われています。誰も心配しないのでしょうか。この子たちは、将来いったいどうなるのでしょうか。そして、その子孫はどうなるのでしょうか。


※線量計
 放射線の強さを測る機械。

 森はいつでも私たちに憩いの場を与えてくれました。しかし、今はいりぐちに「厳禁」の立て札が立っています。そこでは、人間の生活であたりまえのことが禁止されています。狩り、キノコ狩り、イチゴ集め……、今はみんな危険なこととなってしまいました。土地も、森も、花も、鳥も、獣もみんな地雷と同じです。それは爆発するものもあるし、爆発しないものもあります。放射能がいっぱい詰まっていて、人間の機能を爆破し、死にいたらしめることさえできるのです。

  プルトニウム(※)は減りつつある
  だが おそらく 今後永遠に
  畑も庭も それに育てられるのだ
  プルトニウムは減っている
  木の幹はすでに 不機嫌に
  スクリューのように 毒を吸い込んでいる


※プルトニウム
 ウラン238が原子炉の中で中性子を吸収してできる人工的な原子。高純度のプルトニウムは、少量で強力な原爆が作れるほか、毒性も非常に高く、わずか2キログラムで世界の人口をガンで死亡させることができる。

 時はたち、政府は人々が置かれている状況をよくするために動き始めています。大人には補償を与えています。しかし、これから生まれてくるものや、生まれたばかりのものたちへの補償のことは誰も何も言いません。せめて、来るべき問題や心配ごとから子どもたちを守ってやれないのでしょうか。子どもたちの笑顔がますます見られなくなったのはなぜなのでしょう。どのような補償が問題を解決できるのでしょうか。死者の苦痛、ふるさとのすでに死んでしまった土地、先祖の墓をあとにする苦痛、死者を思う悲しみをどんな方法で計れるというのでしょうか。若者や健康な人も病気におびやかされています。彼らの肉体は魂と、いのちと、幸福と、愛を求めています。

 私は信じたい。政府の指導者、裁判官が、今まで避けていたようなことにも顔を向けてくれることを。ぜいたくな別荘を建てたこともないような普通の人々の気持ちを理解してほしい。自分の子どもの命が永らえるように、そして少しでも喜んでもらえるように毎日がんばっている人たちの気持ちをわかってほしい。この現実を信じないとでもいうのですか。ゴメリ州立病院循環器科に行ってみてごらんなさい。何にも興味をしめさない赤ちゃんの目や、赤ちゃんが助かる希望をなくし、悲しみから髪が真っ白になってしまった若い母親の姿を見ることができます。この光景を見たら、みんなに、そして一人ひとりにこうたずねたくなるでしょう。

 「みなさん。この苦しみにもてあそばれているような日々は、いつまで続くのでしょうか。母親の悲しみ、子どもの早すぎる死、民族の滅亡にたいして誰が責任をとるのですか」と。

 この質問に対する答えをいつかは聞けることを信じています。

母とわたしと祖父の友人 ガリーナ・ロディチ(女)

母とわたしと祖父の友人 ガリーナ・ロディチ(女)
 第三中学校10年生 チェチェルスク

 太陽の輝く春の日だった。私と母は、白樺とななかまどの苗木を家の窓の下に植えるために、村のそばの森へ行った。そして、それを家の近くまで運んできたとき、突然、嵐が吹きつけてきた。空は見えなくなり、太陽も見えなくなった。ほこりは目や口に容赦なく吹きつけた。嵐は突然始まり、そして、突然おさまった。

  あんなにも幸せだった
  カミツレの花ひとつに 雑草の一本に心をおどらせ
  森を歩いては カッコウの歌を聞いた
  「カッコウさん カッコウさん
  私はあとどれくらい生きられるの」
  ママの瞳は光を失い
  口からはほほ笑みが消えた
  ママの髪には白いものが目立ち
  心には恐怖が宿った
  チェルノブイリ チェルノブイリ
  お前は不幸をもって来た
  もうじき私は死ぬの まだこれっぽっちしか生きていないのに
  チェルノブイリ チェルノブイリ
  一体お前は何をしたの
  残されたのは何百万のただれたむくろ

 当時、チェルノブイリに何が起こったのか誰も知らなかった。チェルノブイリの漆黒の翼はベラルーシ全部を覆った。放射能のちりが、林にも、クローバーの牧草地にも、畑にも、ソシやドニエプルの川にも、花の咲きほこる公園にも、家々の屋根にも落ちてきて、黒い竜巻のように、私たちの生活に乱入してきたのを、私たちは知らなかった。見えない放射能が蔓延し、甲状腺は放射性ヨウ素で被曝したけれど、誰も警告を出さなかった。

 地球的規模のチェルノブイリ事故が、チェチェルスクやその周辺の村々を襲ったときでも、チェチェルスクの人は誰も自分たちの不幸に気づかなかった。キエフからのラジオを聞いたとき、人々は悲しみ、ポレーシェの運命が伝えられると人々はためいきをつき、ナローブリャから疎開する人々のバスを見ると泣き出した。だけど不幸は遠くに起こっていて、ここは安全だと考えていた。しかし、6月初め、チェチェルスクの子どもたちも「きれいな」ところへの疎開が始まった。母も祖母も見送りの時に泣き、子どもたちも初めて母親との別れに泣き出した。私の母は教師だったので、走り始めたバスの中の子どもたちをなだめた。子どもたちは泣くのを止め、鉄道の駅まで歌い、列車の中の2時間、さらに歌い続けた。

 マリーナちゃんが母に質問した。「先生。おばあちゃんたちは、なぜ私たちの列車に十字をきったの」と。目には耐え難い苦痛の色を浮かべてはいたが、みんなを励まし続けてきた母もついに、デッキに飛び出し、大声で泣いた。

 セシウムは、畑や牧草地や緑のカシの森に侵入していた。リンゴの木も、森の中の草地も川も敵になってしまった。どこでもストロンチウムやセシウムがある。あれから8年、チェルノブイリの被害は何を引き起こしたのだろうか。この間、私は森にはたったの一度しか行っていない。イチゴは採ってはいけない。キノコはみんな毒キノコになってしまった。矢車菊やカミツレの花は摘んでいけない。それで花束をつくれない。だめ、だめと皆が言う。

  ぼうや
  はだして草のうえを歩いてはだめよ
  手で砂をさわってはだめよ
  雨の中を 走ってはだめよ
  川であそんではだめよ
  でないと 病気になりますよ
  わたしのいとしいおじょうちゃん
  森の草地であそんではだめよ
  花をつんではだめよ お願いだから
  でないと あなたも うさぎちゃんも
  死んでしまうわよ
  子どもたちはこう答えた
  「だめ だめ だめ もうたくさん!
  早く ストロンチウムやセシウムをとってしまって
  そうしたら
  森の草地で元気にあそべるのに

 2年前、私の祖父は、ふるさとの村が、どのように埋められて、丘になってしまったかが書いてある手紙を友だちから受け取った。この友人はその様を見ていたのだった。祖父は石のようになり、立ちつくした。足が土に根をはってしまったようだった。祖父は長い間立ちつくした。そのあと、目にみえない重力におしつぶされるかのように、ゆっくりと歩きはじめた。

 その手紙の言葉のひとつひとつが痛みにおしひしがれていた。心臓はとても持ちこたえられそうにない。このような苦痛に誰もが耐えられるわけではないのだ。

 この村の埋葬とは、家のそばにパワーショベルで掘った5メートルの穴を用意しておき、消防車がホースで放射能のほこりが舞い上がらないように、家の屋根から土台まで水をかけ、キャタピラのついた巨大な怪物が、その大きな穴に家をなぎ倒すのである。私は、このただの葬式ではない不気味なものを、見たいと思った。この出来上がった黄色い土まんじゅうのことを考えると、心臓が締めつけられ、のどがつっかえたようになった。

 その村は、まさに死の村になってしまった。家々はもの悲しい静けさの中に建ち、雑草でおおわれている。いくつかの家の窓には十字の板が打ち付けてあり、通りには人も、犬も、猫もいない。ただ墓穴を掘る低い土の響きがあたりにこだましているだけ。人のいない村。死の村。

 チェルノブイリは私たち一人ひとりの痛みであり、みんなの痛みである。死ぬまで自分自身を難民、被災者として感じていかなければならない移住者たちの、その痛みなのだ。年に一度、招霊祭(※)の日に、親族や知人が葬られている墓におまいりすること以外、彼らが自由に自分の村、自分の家にいけるのは夢の中だけなのだ。


※招霊祭
 ロシア正教の宗教行事

 この4月の黒い日に、数千のチェルノブイリの被災者たちは、生きるうえでもっとも大切なもの、聖なるもの、自分の根ざすところをなくしてしまったのだ。

 私の住むチェチェルスクも、情け容赦のない恐ろしい運命に落ちた。そこはチェルノブイリによる汚染地帯であることが分かったのだ。

  ふるさとで生きたい
  ふるさとで、朝焼け、夕焼けを見たい
  なつかしいふるさとの空気を吸いたい
  私に何の罪があるというの

 私たちへの罰は、放射能で満ちあふれた土地で暮らすことである。そして私たちは、二十世紀最大の悲劇を引き起こした無責任さに対する他人の罪をも背負わされてしまった。

 ふるさとはふるさとである。チェルノブイリの灰に満ちていてもよい。人々は、たとえ土地が病んでいても、それを守りぬく。事故後、多くの人にとって、土地は幾倍も貴重なものになった。私たちは、8年もチェルノブイリの十字架をかついでいる。8年もだ。しかし、チェルノブイリは過去のものではない。今日であり、明日なのだ。そして、私たちの未来ですらあるのだ。

 2、3日前、コウノトリの群れを見た。コウノトリは私たちの傷だらけの土地にやってきた。彼らは秋までここで過ごすために、毎年やってくる。彼らは人と同じく、自分の意志で小さな土地に居続ける。どこへも飛んで行ったりはしない。

 これはばかげたことなのか。頑固なのか。いや、ただ愛なのだ。裏切ることができないのだ。忠実なのである。チェルノブイリの汚染地区に、私たちは生きている。不幸や病気に抗して、生きている。土地は死んではいない。

  援助の手を差しのべてほしい。
  生活に必要なものだけは奪い去らないでほしい
  病んだ土地に生活する人のことを覚えていてほしい。

ジェミヤンキ村との別れ ナターリア・ジャチコーワ(女)

ジェミヤンキ村との別れ ナターリア・ジャチコーワ(女)
 ビレイカ中等学校9年生

 私は、それほど長く生きてきたわけではありませんが、その中でも、ジェミヤンキでの生活はすばらしいものでした。この村はリンゴ、サクランボ、ナシ、スモモの新鮮な緑に埋もれており、今でも夢の中に現れてきます。

 村の通りの両側には生け垣がめぐらされていて、その根元にはエゾイチゴが植えてあります。この生け垣の中へと私の足は自然に導かれます。ここジェミヤンキの人たちはなぜだかイチゴが好きなのです。夏は、生け垣はつくられませんが、代わりにエゾイチゴの茂みが絶え間なく続きます。そして、その緑の葉のあいだには、真っ赤に熟れたイチゴの実が光っています。誘惑に負けて、大きな実をもぎ取り口の中にほうり込むと、甘いイチゴの味が幼い日の想い出を呼び起こします。4歳の私は母の言いつけを守らず、こっそり生け垣に入り込み、おなか一杯エゾイチゴを食べて最高の味を満喫していました。すると突然、「ナターシャ! またイチゴのところね! どうしたらあなたの悪い癖が直るのかしら」母の声です。驚いた私は、急いで生け垣をくぐり抜け、木戸を開けます。すると目の前には草原が広がり、足元にはまるで夢のようなフカフカのソファーが並べられています。キンポウゲやタンポポの黄色い雲、ナデシコのばら色、矢車草の青、カミツレの白の波。空色の忘れな草も点々と咲いています。私は思わず花の海に身を投げ出し、その中に顔をうめると、喜びと幸せで口から歌がこぼれます。すると、草原も歌いだしたのです。キリギリスは高らかな合唱、ミツバチはブーンというすてきなバスの独唱。

 草原はちょっとした高台にあり、そこからの眺めはすばらしいものでした。右手には金色のライ麦畑が広がっています。それはまるで、太陽が地面に降り立って、かろやかな一陣の風にそよいでいるようでした。そしてその先には、堂々とした森の壁がたっていました。森は、いつでもライ麦畑や草原や村、それにわがジェミヤンキ村の周りを流れる光の帯イプーチ川を守っていました。

 私はよく、おじいちゃんのところの脱穀場へ急いだものでした。トラックが来て麦の荷降ろしをすると、みるみるうちに黄金色の山ができます。これを見るのが好きでした。次は、麦を乾燥させている女の人たちのところに全速力。走ってきた勢いで、金色の小麦の山へととび込み、頭が隠れてしまうまでもぐりこみます。口を開けて小麦の粒をほおばり、それをかみます。うれしくて目がほそくなってしまいます。

 列車が急に止まり、私は目が覚めました。「もうゴメリに着いたの?」ママに聞くと、「ここはまだよ。まだねてなさい。ここはジロービンよ。ゴメリに着くのは朝になってからよ」と、やさしく答え、私に毛布をかけてくれました。私はまた目を閉じたのですが、いろいろなことが頭にうかんできて、なかなか寝付けませんでした。外は深い夜でした。

 私は何回となくジェミヤンキに行きました。おじいちゃん、おばあちゃん、友だちそれに親戚の人たちにあえると思うと胸がわくわくしました。ここジェミヤンキで何度も夏を過ごしました。この美しい、幸せの里が私のふるさとになっていました。それなのに今では……。

 チェルノブイリでの出来事を聞き、母がどんなに心配して泣いたかを覚えています。彼女は医者なので、村や住人にどんなことが迫っているのかよくわかったのです。しかし、その時、私は母の涙や悲しみを理解できませんでした。チェルノブイリの事故は、どこにでもある普通の火事だと思っていたからです。

 事故後、はじめて村に行ったときのことを覚えています。村には人の姿はありませんでした。人々はまるで一番頼りになる避難場所は生まれた家だといわんばかりに家に引きこもり、放射能から身を隠しているかのようでした。村の農家の多くはすでに窓がクギづけされていました。

 歩くごとに私の心臓は恐怖で凍りつきました。ここは本当にあの村なのだろうか。おじいちゃんの家に着くと、突然、物悲しい犬の遠吠えがしました。きっとこの犬の飼い主は、放射能を避けるためにここから出て行き、犬だけがここに戻ってきたのでしょう。その遠吠えと鳴き声は、怒りで死んだ人たちの物悲しい歌のようでした。

 母は私のそばに近づき、頭をなで「泣かないでね。大丈夫だから」と言ってくれました。頭をあげると、母の目にも涙が流れていました。

 おばあちゃんとも会いました。二人とも目に涙をためていました。放射能の断崖の墓穴に落ちぬようにとお互いの身体をきつく抱きしめていました。

 私たちがビレイカにもどった時、不幸の知らせが襲いかかりました。父がチェルノブイリに派遣されたのです。父はまる2か月間、放射能の真っ只中で仕事をしました。父は母には何も話さないように頼んで行ったのですが、私はうっかり口をすべらせてしまいました。その時の母の涙は忘れられません。そして、おばあちゃんの涙も絶対に忘れることはできません。父はチェルノブイリへの出張で、甲状腺を被ばくしました。

 夜明け。両親も弟も妹もまだ眠っています。悲劇の事故のあと何度もふるさとの村に行きました。今、また村に向かっています。わが家も家族全員で移住したので、村を訪れるのはこれが最後になります。おじいちゃんとおばあちゃんは、同じドブルーシ地区内のより安全な場所に部屋を借りました。私は、ジェミヤンキにおばあちゃんたちが残り、喜びと幸せが戻り、あのいまわしい放射能が永久に消えるのだったら、何を差し出しても惜しくはありません。

 空想をしていると、時間はあっという間にたってしまいます。気がつくとドブルーシに着いていました。「ナターシャ! ほら、そこに立ってないで。何を考えているの。こちらに急いでおいで、バスが来たわよ」母の声が突然聞こえました。バスに乗ると、私は窓のそばに座りました。子ども時代を過ごした家に行くのはこれで最後になります。すべてを、どんな小さなことでも永遠に心に刻み付けたいと思いました。

 父と運転手さんの会話が耳に入ってきました。

 「いや、バスはジェミヤンキには行きませんよ」運転手さんは事務的に言いました。

 「どうしてですか。モロゾフカ行きのバスはジェミヤンキをいつも通っていたじゃないですか」

 「いつも通っていましたよ、前はね。今はだめ。ゾーンですよ。ゾーン。分かりますか」運転手さんは一語一語に分けてこう言いました。私の目には涙があふれました。もうそこには誰も住んでいないのです。

 父がこちらに来たので、母は「どうしたの」と聞きました。「バスはジェミヤンキ経由では行かないそうだ」父は怒ったように答えました。「5キロは歩くことになるなあ」

 ゾーン!何と言うことでしょう。私のふるさとジェミヤンキもそうだなんて。危険地域、禁止区域、居住に不敵な地区。生きることさえできないところ。

 バスの窓の外に灰色の打ち捨てられた農家が見えてきました。いくつかの農家の木戸の柱にタオルが結び付けてありました。長い手製のタオルに簡単な刺しゅうがほどこされたものです。昔からタオルは民衆の儀礼や伝統とは切り離せないものでした。生まれたばかりの赤ちゃんを寝かせたり、結婚式で新妻に結びつけたり、墓穴の底にそれを敷いて、その上に死者をいれた棺を降ろしたり、または墓の上の十字架にくくりつけたりします。そのタオルがここでは打ち捨てられた家の木戸に結びつけられています。家の主人の魂が永遠にここに残るというシンボルとして。

 バスが突然停車しました。ジェミヤンキに行く人はここで降りてください。バスはこれから迂回をします」運転手さんの声を聞いて、私たちは出口に急ぎました。外はきびしい暑さでしたが、なぜか寒気がしました。「これが最後だわ」心の中でささやきました。「すべて終わりなんだわ」

 目の前になにか建物が見えてきました。そばに近づくと、検問所のようでした。遮断機のところで止まると、兵士が近づいてきました。

「どこへ行くんですか」大声で兵士は聞きました。

「ジェミヤンキです。親戚のところへです」

「名前は」

「ダビードフです」

 兵士は長いこと名簿を繰ると、

「レオニード・パーブロビッチさんですね?」突然兵士は言いました。

「はい」

「どうぞ、通っていいです」

 兵士が遮断機をあげ、私たちはゾーンに入りました。するとそこにバスが来て止まり、運転手さんが出てきて言いました。「リューダ、ジェミヤンキに行くんだね。乗りなさい。乗せて行こう」母は運転手さんの顔をびっくりしてながめると、母の同級生でした。間もなくジェミヤンキに着きました。おじいちゃんとおばあちゃんが首を長くして待っているはずです。

 通りを歩くと、50戸ある家屋のうち、人が生活しているのは、たったの3軒でした。一つはおじいちゃんの家。あとの二つはウクライナからの避難民の家だそうです。

 故郷の家に入ると、涙がとめどもなく流れ落ちました。以前と同じはずなのに、とても悲しそうに見えるのです。庭に花はなく、あるのは低い木だけです。手入れがされなくなった芝生の中に生えています。もう少し庭を歩くと、つい最近まで実がなっていたリンゴも、ナシも、ほかのくだものも、実がついていないのに気がつきました。ただ、エゾイチゴの黄色くなった葉の陰に、めずらしい野イチゴがぽつんぽつんと赤くさびしそうに見えるだけでした。菜園のむこうの草原には花がたくさん咲いているのですが、ミツバチも飛んでなければ、キリギリスも鳴いていません。私は悲しみと無力感から泣きたくなってしまいました。

 ふと気がつくと、おばあちゃんがそばにいました。「ジェミヤンキ村はただの森になってしまうのよ」と。何ということでしょう。「これでおしまいね。おばあちゃん、終わりなのね。私たちの家族みんなに幸せを運んできたものはもう絶対にもどってこないのね」

 「戻ろうか。ナターリア。おうちにお別れしなくっちゃあ」おばあちゃんは私に言いました。私はまるで夢の中のように、おばあちゃんのあとについて門の中に入っていきました。顔をあげるとドアや窓はすべて壊され、おじいちゃんは木戸に鍵をおろしていました。私の胸は張り裂け、心臓が外に飛び出しそうになりました。「ナターリア、お辞儀しなさい」、母の声が静かに聞こえてきました。見ると、母、おばあちゃん、おばさんは永遠に使われることのなくなった家に向かって、深々とお辞儀をしていました。おじいちゃんと父とおじさんは隣にだまって立ち、帽子をとり、頭を低くさげました。私は首から白いスカーフをはずし木戸の柱に結びつけると、持ちこたえられずにしゃがみこんでしまいました。ひざは涙でびっしょりになりました。

 私はバス停までどうやって行ったか覚えていません。私の前を小さい妹が走っていたのは覚えています。当時、彼女はまだほんの2歳で大人の心配や不安をまだ理解できませんでした。神様、妹の幼年期に影を落とさないでください。もうこれ以上、ふるさとや小さなかわいい国から追い出すようなことをしないでください。全能の神様。妹に幸せをお与えください。

 P・S親愛なる審査員のみなさん!
 ドブルーシ地区のジェミヤンキ村には、私の祖先が住んでいました。村の約半分は親戚にあたります。ジェミヤンキ村で、私の母、母の姉妹、おばあちゃん、おじいちゃん、ひいおばあちゃんが育ち、わたしの親戚も数多くここに葬られています。ベラルーシで、最もすばらしいこの土地で、私は幼年期を過ごしました。私は今、有名なヤンカ・クパーラの言葉を思いだしています。「神様!あなたはここの何というすばらしい世界を創造されたのでしょう」これはまさに私のふるさとのための文章です。私はビレイカで生まれ、ビレイカで育ちました。しかし、私のふるさとはジェミヤンキだと思っています。正確に言えば、「幼年期を過ごしたところが、ふるさとになる」のです。ジェミヤンキで私の人生が始まりました。初めての言葉を話し、初めて自分で立って歩いたのもここです。そして記憶の最初にあるおばあちゃんの童話や子守歌。初めての友だち。そして、初めてのけんかも。

 チェルノブイリの事故はすべてをひっくりかえしてしまいました。嵐のような猛烈な勢いで村人の平和な生活に乱入してきました。人々は最も大切なものに別れを告げ、長年住んできたところをあとにしました。明るく人のよい村人たちのかわりに、兵士が現れました。彼らはなぜか皆、同じ顔に見えます。そしていつも、人が住むのに適さなくなった場所でわざわざ危険な仕事をしているように思えました。まるでロボットのようでした。

 チェルノブイリは私の人生の中で最も苦い1ページです。だから、コンクールのことを知ると、すぐ応募することを決めました。ほかの人とも苦しみや痛みを分かち合うことによって、少しでも楽になるのではないかと思っています。

灰の下に ガリーナ・ユールキナ(女・15歳)

灰の下に ガリーナ・ユールキナ(女・15歳)
 コロトロビッチ村 ジロービン地区

 当時7歳半だった私は、おじいちゃんとおばあちゃんと一緒に、ホイニキ地区ドロヌキ村に住んでいた。小学校1年生だった私のところにも不幸は突然やってきた。

 朝、私はたまらなくのどがかわいて外に出た。家々や木々や土などまわり一面、すべてのものは、灰色の薄い層におおわれていた。戦争が始まったのかと思った。地球上のほかの子どもたちと同じように私も戦争は怖かった。はじめに考えついたのは、森に逃げて隠れることだった。私はおばあちゃんに、ずっと遠くの母のいるカザフスタンに逃げるように頼んだ。でも、おばあちゃんが賛成しなかったので、母は殺されたのかと思った。思えば思うほど恐ろしく、私は涙をながしながら叫んだ。

 「ママやパパは生きているって言って。まだ死んでないと言って」と。母は生きている。もうすぐ母のところへ行けると私はなだめられた。でも、誰も信用できず、知らない人が訪ねて来ると怖くなり、恐怖で私の目は大きく見開くのだった。

 今にも、誰かが「お嬢ちゃん、パパもママも死んだよ」と言い出すような気がしていた。おばあちゃんはずっと泣いていたので、きっと母のことで泣いているのだろうと思っていた。

 時々、私たちはホイニキに行き、そのあとミンスクに行った。私は検査を受けると、そこですぐに入院させられたが、病気のことは何一つ説明もなかった。

 ある日、おばあちゃんとお医者さんの話を立ち聞きしてしまった。私は重体で、肝臓が悪いということだった。私は肝臓が肥大していることを始めて知った。約2か月入院した後、医者の勧めるカザフスタンに行った。

 しかしそこでも病から救われなかった。髪が抜け始めた私が、被曝していると分かると、誰も友だちになってくれなかった。それどころか、「よそ者」とぞんざいな言葉を浴びせられ、どんなに泣いたことだろう。

 カザフスタンにも長くは居られなかった。体調はずっとすぐれず、目がまわり、よく倒れた。医者はなすすべを知らず、私はベラルーシに帰らざるをえなくなった。

 今はおばあちゃんおじいちゃんと一緒に、ジロービン地区のコロトロビッチ村に住んでいる。その後私の体は、さらに悪くなっている。胃も腎臓も肝臓も悪く、甲状腺肥大も進んでいる。

 私は何度も、「子ども救援基金」に手紙を書き、療養所の利用券をお願いしたが、すべて無駄だった。そして私は、ジロービンの病院で治療をうけざるを得なかった。

 体の痛みのほかに、心の痛みも鮮烈に残った。あの時の自分の涙、両親の涙、祖父母の涙、近くに住む人々の涙・・・・・・。すべてはっきりと覚えている。ちょっとした物音がしても、敵ではないかと怯えたものだ。病院での長い日々も忘れることはできない。子どもたちからあだ名で呼ばれたときの屈辱も。

 心の傷は時間がいやしてくれるかもしれない。確かに痛みはおさまってきているが、忘れ去ることは決してない。

 まもなく16歳になる私に、恐怖がつきまとう。病気と直面している恐怖である。突然変異についてよく耳にするが、自分の未来の子どものことも心配だ。その可能性があるのではないかと恐怖はひろがる。

 被曝した人は大勢いる。私とおなじようにののしられた多くの「よそ者」が、おなじような思いで生きていることだろう。世界のすべての人に訴えたい。

 「みなさん、考えなおしてください。過ちは犯さないでください。原発をつくらないでください。核兵器をつくらないでください。ヒロシマやチェルノブイリを思いだし、その結果起きたことを考えてください。子どもたちのことを考えてください。
 相互理解と平和を達成することは、果たしてそれほど困難なことでしょうか。エネルギー源をほかに求める道は、本当にないのでしょうか。考えてください。
 ごく普通の女の子の叫びを聞いてください。私たちの惑星を守るのを手伝ってください。
 本当にお願いします。本当に・・・・・・」と。

僕のコウノトリはどこにいるの バーベル・チェクマリョフ(男)

僕のコウノトリはどこにいるの バーベル・チェクマリョフ(男)
 第一中等学校8年生 ドゥブルシ町

  飛んでいく 渡り鳥が
  遠い秋の青空を

 鳥が、耳をつんざくような別れの鳴き声をあげて飛び去るのを見ると、僕はいつもこのミハイル・イサコフスキーの歌詞を思い出す。そして、僕はなにか寂しさを感じる。

 だけど春になって彼らが自分の巣に戻ってくると、僕はこの羽をもったお客さん一人ひとりにキスをしたくなるのだ。

 村のはずれにレンガづみの高い煙突がある。ずっと昔に全焼してしまった農家に残っていたものだ。僕の生まれたころにはもうすでに、その墓標のような煙突だけがそこにあった。この煙突のうえに、巨大なキノコの形をした帽子のように、コウノトリの巣があった。コウノトリは草原を堂々と歩き、また、道に静かに立ち止まっては、何か考え込んでいるように見える。「コウノトリは哲学鳥だ」と僕たちの先生は言っていた。

 僕の父は魚釣りが好きだ。夜に釣り道具を準備し、夜明けに、湖にでかける。その日、僕はどうしても父と一緒に行きたくなって、連れて行ってもらうために、一晩中寝ないでいた。そして明け方、父の運転するオートバイに乗って出かけた。コウノトリの巣のそばを通りかかったとき、コウノトリはもう赤い足で草原を歩きまわっていた。

 霧がかかった湖は、何て気持ちがいいんだろう。葦や青い柳はまだ眠り込んでいるみたいだ。一枚の葉さえ、そよいでいない。

 やがて僕たち二人は、黄金色に輝くたくさんのフナを針金にとおし、それを手に得意げに家に帰った。たまらなく暑い日だった。巨大な夏の熱い太陽が満天に燃えているかのようだった。この輝きが災いをもたらしたのである。

 このような太陽を今まで一度も見たことがなかった。僕はこの最後の魚釣りを一生忘れないだろう。

 奇妙なことだ。僕は太陽が好きだった。寒いとき、湿っぽいとき、いつも太陽を心待ちにしていた。しかし、今は、太陽が空に大きく、鮮やかに輝くのを見ると、恐ろしさを感じ、ぞっとするようになった。一人ぼっちになってしまったコウノトリ。すべてが変わってしまった。コウノトリは家を捨てて避難していった人々を見送った。荷物を積んだ車を黙って見送りながら、コウノトリは「人間も渡り鳥になっちまったのかい…?」と不思議に思ったに違いない。村の家々の窓は十字に板が打ち付けられた。まるで村全体が大きな墓場になってしまったみたいだ。解体された農家にはレンガづみの煙突だけが多数残り、今となってはそれは薄気味悪くそびえ立つ記念碑になってしまった。しかし、そのただの一本にも、鳥の巣はできなかった。

 もう湖には行けない。その代わり、僕はよく他のいろんな所へ行く。僕の知らないところ、つまり「非汚染地区」へだ。多分これはいいことだと思う。いろいろな土地、いろいろな人と出会えるからだ。僕には新しい友だちもできたし、新しい通りにも慣れた。しかし、心から楽しむことはできない……。

 でも、あの思い出は、僕をいつも深い愛情で包んでくれる。それは、僕が同学年の何人かと一緒にドイツに行く機会に恵まれ、絵のように美しい村の、親切なブリギッタさんの家に滞在した時の思い出だ。彼女は僕のことを息子のように愛してくれて、いつもおいしい料理をお腹いっぱい食べさせてくれた。ブリギッタおばさんはロシア語がわかり、僕と喜んで会話をしてくれた。彼女は歴史の話を面白おかしく話してくれたりもした。僕がうるさく何かをせがむときも、彼女は、僕のカーチャおばあちゃんみたいにほほ笑みを絶やさなかった。いつもは明るく陽気なブリギッタおばさんであったが、唯一度だけ、僕が犬と遊んでいるとき、なぜか彼女は黙って僕を見つめ、泣いていた。

 暖かい海、雪をかぶった山々、エキゾチックな村、飾り立てた船が行き来する大きな川。僕はいろんなものを見た。僕はたくさんの町を訪れ、たくさんの人と出会った。しかし、どうしても僕の目の前には静かな湖がうかんでくる。鏡のように透きとおった水。青々とした柳。そして道には、長い足の「哲学する鳥」がいる。

 またあるとき、急行列車で僕を別の町につれて行ってくれたりもした。そこにはきれいな空、きれいな空気があるけれど、そこは僕のふるさとではない。列車の窓際に立っていると、向こうの空から鶴がこちらに飛んでくるのを見た。彼らは事故について何か知っているのだろうか……。

 皆さん、僕たちは一体何をしてしまったのでしょうか。神様、生きる力を与えてください。

 罪深い僕たちを許してください。

僕の血の中のチェルノブイリ キリル・クリボーノス(男・15歳)

僕の血の中のチェルノブイリ キリル・クリボーノス(男・15歳)
 ネシャチ中等学校10年生 クリチェフ地区

 物理の授業の時だった。授業のテーマは「放射能照射の生物学的影響について」だ。「放射能」「線量(※)」「アイソトープ(※)」「キュリー」「セシウム」「ストロンチウム」「チェルノブイリ」などの用語が響きわたる。「生きた細胞は複雑なメカニズムであり、一部の小さな損傷によってもその活動を維持できない。また、ごく小さな変化でさえも細胞に深刻な損傷を与え、重大な病気を引き起こす可能性がある。放射能が高度に集中すると生きた組織は破壊される。致死量の線量でさえいかなる痛みも感じないという点が、放射能照射の危険性をさらに大きくしている」


※線量
 放射線の量

※アイソトープ
 同位体。同位元素。同じ原子であっても、中性子の数が違うため質量が違う原子をいう。また放射線を出す同位体の事を放射性同位元素という。

 ふと気がつけば、これらすべての用語を僕はずっと以前から知っている。そうだ、ずいぶん前なのだ。それは僕がまだ幼い頃に、するりと僕の意識に入り込み、僕の心のすみずみにまで浸透したのである。放射能は、目には見えないが人を殺すことができるほどの危険な悪魔の力を持っている。そしてそれは、親戚や知人の命、ふるさとの命を一気に抹殺できる力を持っているということも、僕にはよくわかっている。

 そして今、物理の授業で、それが正にその通りであるということをもう一度確認した。しかし、1986年6月当時は、僕には多くのことがわからなかった。7歳だったから理解できるわけもなかった。だが、僕には多くのことが永遠に忘れられないものになってしまった。当時僕は、母の故郷であるクラスノポリシーナのクリベリツク村に祖母や祖父と一緒に住んでいた。そこはソシ川のそばのすばらしいところだった。集落は大きな森に囲まれていた。そこには整然と並んだ背の高い松や、とうひの木があった。白樺もあった。僕はとくに松が好きだった。それは滑らかで、高く伸び、その幹は赤銅色の光沢をもっている。それ以前にはそのような木は、有名な画家の作品でしか見たことがなかった。森は数キロにわたって広がっている。その森のはずれには草がびっしり生え、花の香りがいっぱいの広大な緑の牧草地がある。そして、そのまた向こうに銀色に輝く川の帯が見える。僕は祖父と一緒に馬に乗ってそこへ行き、干し草を蓄えておいたり魚釣りをしたりした。祖父は岸のそばで水遊びをさせてくれたものだった。

 クリベリツク村は大きい。村の中心をつらぬく通りは1キロ半にもおよぶ。その通りにそって、きれいな新しい家が建ち並んでいる。その反対側には小さな公園があり、その隣には巨大なネコヤナギの木がある。祖母と祖父の家は大きくて明るい農家である。中庭もよく手入れされている。家の前には広い庭もあってそこにはリンゴ、ナシ、スモモ、スグリ、グズベリーの木がある。家の窓の下にはいろんな色がぬってあり、祖母のお気に入りだった。少し向こうにはイチゴの畝がある。そこは僕にとってどこよりも魅力的な場所だった。しかし、その年には祖父は僕をそこに行かせてくれなかった。イチゴには放射能があるから食べてはいけないと言う。僕は注意深く、赤く輝くみずみずしいイチゴを窓から見て、放射能を見つけようと努力した。でも、恐ろしいものなど何も見えなかった。祖母が家事に忙しいとき、僕はこっそりと畝に忍び寄った。わずかに熟れたイチゴを次々につみとって、大満足で口にほうり込んだ。祖母は僕を見つけて菜園から追い出し、いろんなことをののしった。どこかの誰かの発明を。原子力のことを。

 その日、僕は早く祖母に伝えたくて、友だちのところから急いで走って帰った。サーシャの家に知らないおじさんたちが大鎌を持ってやってきて、イチゴの畝を全部刈り取って行ってしまったのだ。彼らをうちの菜園に入れないように、祖母に頼んだ。しかし、おじさんたちはうちにやってきて、イチゴを根こそぎ大鎌で刈り集め、車に積んで行ってしまった。僕は泣いた。僕と一緒に祖母も泣いた。

 間もなく両親が僕を迎えに来て、家に連れ帰った。夏休みが始まったばかりだというのに、なぜ村を離れなければならないのかわからなかった。

 僕はもう3年も村に行っていない。祖父が僕の家に来て、村のことを話してくれた。馬のセーリイと牛のゾリカはもういない。家のそばの畝もなくなった。そこは2回除染され、表土が取り去られた。その後しばらくして、祖父と祖母は僕たちと一緒に住むことを決めた。クリベリツク村から最後の住人が出ていく日がきてしまったのだ。

 最低限必要なものだけが持ち出しを許可され、すでに集められていた。祖父の家には親戚が集まった。彼らはモギリョフ州ドリービン地区に引っ越すのだ。親戚の人々の目には苦悩と悲しみの色が濃かった。みんな泣いた。祖父は打ち捨てられる家の周りを歩いては涙を流し、祖父はしょんぼりと中庭をぶらついている。大祖国戦争のことを思い浮かべ、勇士に与えられた勲章を持ちながら。彼にとっても、敵がどこにいてなぜ逃げなければならないのか、理解できない様子だった。「どうしてここから逃げなきゃいけないんだ」と、祖父は誰にともなくぼう然とたずねた。

 魂が抜けたようになった祖母を車に乗せ、家や、まだそこに残る親戚、知人たちに別れを告げた。目の前の道には永遠に人の住まない故郷の村に通じている。平坦なアスファルト道を走ったが、一台の車にも出合わなかった。

 大きなノポリエニ村にさしかかった。人々が見捨てた家々が、空っぽの窓で私たちを見下ろしている。以前は、学校、マーケット、病院、薬局だった建物もある。だがどこにも人の姿はない。恐ろしさを感じた。

 捨てられた村の通りにはヨモギギク、いらくさ、ヨモギがびっしり生えていた。放射能に汚染された土地にはこれらの植物しか生えることができないようだ。地区の中心にあるチャウサにたどりついた。牧草地や牧場には、家畜が一匹も見当たらない。人はどこにもいず、気味の悪い静けさだけが支配している。鳥の鳴き声もしない。多分、鳥たちもどこかに移住してしまったのだろう。

 もう三年も祖母と祖父は僕たちといっしょに住んでいる。彼らの会話に最もよく出てくるのは「あそこでは」という言葉である。年寄りにはこのような宿命となじむのは困難なことだろうと思う。

 不吉なチェルノブイリの影が僕たち全員を包み込んでしまった。モギリョフではこの不幸を負わなかったところはない。唯一、クリチェフ地区だけが比較的安全な地帯だと考えられている。しかし、あくまで相対的な話にすぎない。この場所もすべて、放射能の「黒い斑点」の中にある。直接的な意味でも、比喩的な意味でも、チェルノブイリは僕の血の中にあると、僕はそう思い始めている。

 1991年初め、共和国保健省から派遣された医師団が僕たちの学校を訪れ、医療検診が実施された。多くの子どもに甲状腺肥大が見られた。僕にもこの病気が発見された。クリチェフ地区病院で1クールの治療を受けた。その年の夏、僕は「チェルノブイリの子どもたち基金」によって、黒海沿岸の保養地トゥアプセのピオネール・キャンプ「オルレーノック」に行くことができた。40日間、ベラルーシの様々なところから来た男の子、女の子たちとそこで休養した。そこで気分は良くなった。しかし、チェルノブイリによる故郷の不幸や災難で苦しんでいる人のことを思うと、痛みで胸が締めつけられる。

 僕の心の中から抗議と絶望の叫びが聞こえてくる。ついに,この地で生命がつきてしまわぬように、そして、今は死んでいる町や村が再び命を取り戻すように、あらゆる事をしなければならない……。まさにこれこそ、僕が物理の授業で考えたことだった。

殺されるまぎわの馬の悲鳴 ガリーナ・ポチェエンコ(女)

殺されるまぎわの馬の悲鳴 ガリーナ・ポチェエンコ(女)
 ホルメチ中等学校十一年生 レチツァ地区

 私は人々が避難した直後にゾーンに入って働いた、ある人の話を書きたい。以下は彼から聞いた話である。

 私は当時運転手として働いていた。

 ある日の朝、誰かが家のドアをたたいた。ドアを開けると、警察官の制服を着た背の高い太った男が立っていて、「あなたは◯◯さんですね」と尋ねた。

 「はい、そうです。私に何かご用ですか」

 「私たちと一緒に来てください。必要なものは全部持ってきてください。あなたを連行します」

 「どこへですか」私は気が動転した。

 「あとで分かるでしょう」

 私は、言われたとおり準備し、しばらくのちに出発した。

 「どこへ行こうとしているんですか」私はたびたび質問した。

 「まあ、出張だと思ってください。あるものを運ぶんですよ」

 目的地に着くと、ダンプカーが与えられ、朝まで休むように言われた。初めて来た場所だった。そう遠くないところに、座っている男たちの集団をみかけ、近づいて行った。私の目にはそれが不思議な光景に見えた。彼らはすわって、何かを飲んでいた。なんと、それは強い酒だった。そのすぐそばには、警察の車がとまっている。

 「何で酒なんか飲んでいるんだい。警察が隣にいるじゃないか」私は驚いて言った。彼らは私をどろんとした目で見上げ、

 「お前さん、たぶん新米だね」と言った。「まあ、こっちに来て座れよ。恥ずかしがらないで。あした、みんな、わかるさ」

 彼らの中には制服を着ているものもいた。相変わらずちんぷんかんぷんだった。

 翌朝、私の仕事についての説明があった。

 住人は誰もいなかった。この放射能ゾーンから出て行ってしまったのだ。彼らは長年の労働によってためた財産を投げ捨てて、脱出した。家は家具をそのままにして建っている。納屋には牛が鳴き、羊が鳴いていた。コルホーズの畜産場には家畜がそのまま残されていた。

 私と私の相棒たちの仕事は家畜を運び、殺すことだった。私たちが牛や豚を車で運び、崖のふちに降ろすと、そこに立っている軍服を着た人たちがすぐさま射殺するのであった。

 最初の夜、私は家畜の悲しい鳴き声と自動小銃の音が耳から離れず、なかなか寝つかれなかった。こんな恐ろしい光景は今まで一度も見たことがなかった。

 翌朝は、馬を運んでくるよう命令された。この日のことを、私は永久に忘れることができないだろう。

 馬が涙を流して泣くのを聞いたことがあるだろうか。めったにない光景だ。かれらは泣いた。号泣した。小さい子どものように。馬を荷台にあげると、かれらは運転席の上に頭を横たえる。まるでどうにかして体を安定させようとしているようだった。馬の惨めな号泣は私の魂を痛めつけた。かれらは崖から突き落とされ、骨は粉々になるのだ。私はたたずみ、両手で顔をおおい、大声をあげて泣いてしまった。私はそれまでそのように泣いたことは一度もなかった。火炎放射器が馬を焼いた。馬の苦痛を和らげるかも知れないが、それは地獄そのものだった。

 私は酒を浴びるように飲むようになってしまった。私はそこで働いた二週間の間に頭は真っ白になってしまい、妻でさえ私を分からなくなったくらいだった。私は死ぬまでこの大量殺りくを忘れられないだろう。夜になると、夢に現われる。悪夢は続いている。

 この話は私の心から離れず、三日もの間われに返ることができなかった。今でも耳元では「馬は運転席の上に頭を横たえる。まるでどうにかして体を安定させようとしているようだった」の言葉が響いている。私は彼の身になって考えたい。私はとてもつらい気分になり、彼の話の印象を詩に書いた。

  チェルノブイリ!
  おまえはどれだけの悲しみと泣き声を
  家々にもたらしたことか
  誰かが言った 「失敗だったのさ」
  誰かの心が痛む 誰かの
  このようなことは二度とあってはならぬ

ベラルーシの運命は私の運命 オリガ・ゴンチャローワ(女・16歳)

ベラルーシの運命は私の運命 オリガ・ゴンチャローワ(女・16歳)
 第一八中等学校9年生 ボリソフ町

 1986年のある夜、静かな森、松林、青く染まってきた畑、花が咲きはじめた公園、家々、学校、病院の屋根に、チェルノブイリの灰が襲った。事故処理の戦いに、何千もの人が動員された。内務部につとめていた私の父も危険地区に派遣された。当時は、父がなぜこんなに長く家を空けたのか、理解できなかった。私はまだ一年生になったばかりだったからだ。父、つまり警察曹長アレクサンドル・ミハイロビッチ・ゴンチャロフが家に帰れなかった理由は、彼が持ち帰った証明書にこう記されていた。「ホイニキ内務部地区の30キロゾーンにおける任務を遂行していた」ためだと。

 父が知らないおじさんと帰ってきたことをよく覚えている。そのおじさんはしゃがれ声でミネラルウォーターをたくさん飲んだ。医者がそう助言したそうだ。彼は、ポレーシェの空になった村のこと、置いてきぼりにされ、どう猛なうなり声をあげながら森や野原をさまよっている家畜のこと、得体の知れない略奪者のことなどを話してくれた。

 2年後、父は再び私と母のもとを去った。今回はミンスクの病院であった。家の中ではチェルノブイリという言葉がよく話されるようになった。

 1989年、父に恐ろしい診断がくだされた。脊髄悪性腫瘍(※)。ミンスクの医者は手術を拒否した。そのため、父は彼の妹たちといっしょにモスクワに行った。入院したいと思ったからだ。モスクワでは、驚いたことに、「なぜ、ここに来たのか。私たちにはソ連全体の人を治療する義務はない」と言ったのである。


※ 脊髄悪性腫瘍
 脊髄管内に発生し、脊髄や神経根を圧迫するガン。

 父の手術をやってもらうために叔母たちは、屈辱に耐え、わいろを贈り、涙を流してやっと手術を認めてもらった。しかし、その手術も父を助けることはできず、症状はよくならなかった。

 親戚のひとが、外国での治療の可能性を探しはじめた。アメリカへの道は長く困難なものだった。けれども、アメリカのミシガン病院で、父は2か月間治療をうけることができた。

 私は夜も昼も、大西洋の向こうからの便りを待った。私は際限もなく、大人に「どうしてパパはこんなに長く家にいないの」と聞いてまわった。彼らは、チェルノブイリが彼をそこにひきとめているのだと答えた。

 長く待った再会であった。父は陽気になり、希望にあふれて帰ってきた。うまく体を動かせるようになっていて、私たちは父が春までには完治することを期待した。そして彼の話を、遠い国で会ってきた外国人のこと、思いやりのある親切な人々のことを、私たちはまるで魔法をかけられたかのように聞いていた。

 父を治療したアメリカの医者が、モスクワの医学界の権威に手紙を書き、そのなかで父の治療の継続を要請した。しかし、その有名なモスクワの医者は言った。「私に何をしてほしいのですか。あなたはもういけるところまで行ったじゃないですか」

 結局父は医療援助から見放されてしまったのだ。彼の具合が悪くなり、母は父のめんどうを見るために仕事をやめた。医務委員会が父を第一級の身体障害者であると認定したからだ。証明書には「チェルノブイリ原発事故の処理作業に伴う疾病」と書いてある。2年間、父は身体障害者であり、私たちは父の年金で生活した。

 1993年2月、父はまた入院した。主な病気にもう一つ病名がついた。肺炎である。夜も昼も医者が父のベッドにつきそっていた。生のための闘いはほぼ2か月続いたが、3月28日、父は死んだ。死の一時間前、医者が父に質問した。「気分はどうですか」「いいです」と父は答えた。誰も彼の愚痴を一度もきいたことがなかった。誰も彼の涙を見たことはなかった。

 こうして、チェルノブイリは私から父を奪ってしまった。そのうえ私の誕生日さえも。父は私が14歳になったちょうどその日に死んでしまった。どういうことなのだろう。この質問を権力者たちにぶつけたい。平和の時期なのに、なぜ、父を奪うのですかと。答えてください。私は父の温もりとささえが欲しい。父と一緒にお正月の前にモミの木の飾りつけをしたい。私の誕生日に、お祝いの食卓を一緒に飾りたい。なのに私は、父の墓にモミの木を飾らなければならないし、自分の誕生日を放棄しなければならない。その日は父の命日になってしまったのだから。数百万の人を放射能の地獄にたたきこんだ責任ある指導者、権威のある科学者は今、どこにいるのか。

 チェルノブイリ事故の立役者は、陰に隠れてしまった。今も、多くの人におしつけた大変な苦しみを思い出そうとせず、その責任をとろうともしない。チェルノブイリがもたらした災難に関わっているのは、きちんとした良心的な人ばかりではない。権力をもっている人の多くは、自分のことだけを考えている。たとえば、「国家に対する非常に重要な功績」なる理由で多くの年金を受け取れるような政令を考えついた。彼らがいったいどのような重要な仕事をやっているのだろう。ただ、狡猾な法律や決定をつくりあげているだけ。チェルノブイリの被災者は、役人どもが考えついた法律では生きてはいけない。ことに私の家族はそうである。

 母が父の面倒をみていた間は勤務継続期間になっていたが、元の職場に母の場所は残されてなかった。父の死後、母はやっと掃除婦の仕事を見つけた。この国の法律とはこんなものだ。

 「法律の父」(※)は、認識しているのだろうか。出生率が下がり、死亡率が急激にあがっていること。通りには労働している人よりも、よっぱらいの方がはるかに多いことを。


※法律の父
 法律に関する分野の仕事をしている人の中でも権力を持っている人。

 私は理解した。大人の生活には多くの嘘がある。私は、人間の嘘、残虐性、良心の無さを測ることのできる計測器を発明する学者があらわれることを期待している。そうなればようやく、賢く、親切で、謙虚で、思いやりがある人が政府の指導者になることだろう。

 父は彼の短い人生で、つらい時に助けてくれる多くのりっぱな人と出会った。それはベラルーシ労働組合の指導者ウラジーミル・ゴンチャリクさん、ベラルーシ赤十字総裁I・ブレンコフさん、内務省ボリソフ支部長A・シバルコさん、国際組織「チェルノブイリ同盟」副会長T・レーピンさん、「チェルノブイリの盾」協会副会長S・サゾンコフさん、国連ベラルーシ代表ゲンナージー・ブラフキンさん、他の多くの人々である。

 また、遠いアメリカの親切ですぐれた人々の名前も列挙する。ヤビプ・サジッチさん、ビューラー・アートンさん、カーチャ・マズーラさん、リンダ・ロジャースさん、ステファニー・ブレバーさんたちである。

 チェルノブイリは、私の生活だけをだめにしたのでないことはわかっている。私の祖国ベラルーシの大地の三分の一を奪い去った。傷ついた私の祖国国民から、私は切り離されるものではない。ベラルーシの苦痛は私の苦痛であり、ベラルーシの運命は私の運命なのである。


ドミトリーおじさんのゾーンでの話 リュードミラ・ラプツェービッチ(女)

ドミトリーおじさんのゾーンでの話 リュードミラ・ラプツェービッチ(女)
 第一九七中学校十年生 ミンスク市

 ベラルーシの人々と他の国の人々は、重い試練を受けることになった。それはわたしたちが自らの運命を身をもって知ることになった原子力発電所の事故による、深刻な被害のためです。チェルノブイリの灼熱に倒れた人々に対して、弔意を表したいと思う。

 私たちが生活し、働いているすぐそばにリクビダートル(※)と言われる人々がいる。私はおじさんのドミトリー・ゴロフコフのことについて話をする。


※リクビダートル
 事故の後、消火作業やあとかなづけなどに動員された軍人や労働者のこと。60万人を超える人々が動員された。

 おじさんは、最初のミンスク警察部隊の一員として、1986年6月に、チェルノブイリ30キロゾーンに入っていった。部隊は軍曹70人、将校50人で構成されており、事故処理には、ロシア、リトアニア、ラトビア、その他の旧ソ連の共和国の人々が参加していた。彼らの言葉や車のナンバーから、どこから来たか分かったそうだ。時には救急車や警察、軍隊などの車両2千台が縦隊列を組んで進んだこともあったという。

 半径30キロに住む人々は、避難する際に家畜も連れて行ったが、犬や猫は連れていくこともできず、そのまま放置された。それらはやがて野生化し、危険になったため、駆除のための作業が行われることになった。

 人々がいなくなった村には長年にわたって少しずつためられた家財道具がおかれたまま、住む人もなく、ひっそりと家が建っていた。不幸な運命によって、人々はふるさとから追い出されてしまったのだ。

 1986年の夏は、天気がよく、暑く、南風が吹いた。しかし、広大な土地、広大な畑は、もはや誰をも喜ばせなかった。

 チェルノブイリの事故のずっと以前、年寄りたちが語ったことがある。

 『すべての物が豊富になるときが必ず来る。しかし、そのとき、それを食べることもできないし、使うこともできない』と。

 誰もこの予言を信じるものはいなかった。しかし、今まさにこの恐ろしい予言のときが来た。すばらしい天気と、人々の勤勉な労働によって、畑や菜園には食糧が満ちあふれた。人々は放射能のことを知りながらも、その危険性については分かっていなかった。汚染は目に見えない敵だったのだ。

 新聞、雑誌、本などでは、リクビダートルたちが、災害を克服するために働き闘うのがいかに大変だったか、ということをよく目にする。しかし彼らの日常生活や食料などの条件がどうだったのか、ということについては紹介されることはない。

 最初のミンスクの部隊では、25歳から40歳の男性が働いていた。昼食には、328グラムの肉の缶詰が二人に1個の配給しかなく、これではとても足りなかった。そのために、彼らは打ち捨てられた菜園で、汚染された果物をちぎり、それを井戸水で洗い、防護シートでふき、食料にしたのだ。空腹がそうさせたのだ。危険だ! 恐ろしいことだ! しかしこれは事実なのだ。

 ドミトリーおじさんの話では、警察の部隊の服装は、病院の白衣のようなものを着ただけのもので、ほかの作業員との違いといえば制帽だけ。夜の勤務の時は、ゴム製の軍隊の防寒服が与えられた。昼間は暖かいが、この勇敢で、忍耐強い、しかし半分飢えていた人々にとって、夕方や夜の勤務の時の寒さは、防寒着を着ていても凍りついてしまいそうだったという。

 たき火は禁止されていた。空気中に放射能が舞い上がるからだ。

 家を捨てていったある農民が彼らのために、納屋の鍵をあずけていった。おかげで寒い夜の時など、彼らは干し草やワラの中で暖まることができた。

 最初の部隊が撤収する3、4日前に、食料の基準をそれまでより4倍にしなさいという、厳しい命令が出された。この命令により、交替した次の部隊からは最初の部隊のような衣服や食料の困難さはなくなった。

 30キロゾーンでの秩序維持と財産の保護のために働いた人々には、警察に限らず、武器が必要だった。しかし、最初のリクビダートルたちは、任務を遂行する際、それらの武器をもっていなかった。次に交替した部隊からは状況が少し緩和されることになった。

 着任後、おじさんが所属していた部隊の仕事は、まず自分たちの基地をつくることだった。その後、警察部隊は農民の財産を泥棒から守る任務についたが、警備が手薄な家は泥棒に荒らされた。よそから来た悪者が、何とかゾーンに忍び込み、ベラルーシの町の市場で売りさばこうと、菜園から作物を盗むのだ。

 ゾーン内の主要な道路は民間警察によって閉鎖されていたが、小さな田舎道や森の中の小道がたくさんあったため、侵入者が後を絶たなかった。そのためリクビダートルたちは木を切り倒して杭にし、それでワイヤーを張った防護柵を設けたりもした。

 その地区の役所が、住民が中に入り自分の持ち物を持ち出すのを許可することがあった。その際にも、リクビダートルたちはその運搬の手伝いをした。また、ゾーン内には移住をしたがらない老人が何人か住んでいて、その老人たちにパンを運ぶのも彼らの仕事だった。

 それ以外にも、たくさんの苦難が待ち受けていた。

 泥炭の火事がたびたび起こったので、消防士は苦しみながらも、手を休めるひまもなく消化に従事した。また散水車や消防車は、放射能のほこりを固めるための洗浄水溶液を絶えず道に散水し、土地の除染(※)につとめたのだ。


※除染
 放射能を取り除く作業。水で洗ったり、砂をまいたり、アスファルトで固めたりした。

 このようなつらく危険な条件の中にもかかわらず、リクビダートルたちは週に一回、壁新聞を作っていた。おじさんはこの編集にたずさわっていた。

 ちなみに任務解除後の1986年6月22日付警察新聞「10月の警備」紙で、厳しかった任務のことについて書いたおじさんの詩が、コンクールに入選していることが報道された。

 リクビダートルたちの日々の疲れをいやしたのはサッカーのワールドカップの試合だった。夕方や夜に働いたリクビダートルたちは、朝、再放送を見ることができた。これは悲しみを取り除き、力とエネルギーと気分を高揚させるものとなったそうだ。

 おじさんは30キロゾーンから移住してきた人々の苦しみについては書いていない。これはまた別の違ったテーマだからだ。

 一つだけ紹介しよう。

 非常に危険な汚染地区(ホイニキ地区ストレチボ、ベリーキー・ボル)からの移住者のために、争い事もなく、家や学校が建てられた。しかし、1991年には、そこも居住不可能であると宣告されてしまった。

 チェルノブイリの被害を分析するのは困難である。それを計測するのは不可能に近い。しかし、不幸は現実であり、誰の目にも明らかである。被っている損害は長い将来にわたって続く。


根が切り取られたのがくやしい ユーリア・トポルコーワ(女)

根が切り取られたのがくやしい ユーリア・トポルコーワ(女)
 モシュコフ中等学校10年生 クレッツ地区

 僕たちは同じ巣の鳥
 僕たちは世間にまきちらされた
   V・シェルコシートヌイ

 学校に入ったばかりの小さな女の子を想像してみてください。

 私はチェルノブイリ原発の事故をどんなふうに知ったのか、それだけは覚えていないのです。たしか二時限目が終わったとき、その日の授業がもうないことを知らされました。私たちはとても喜んでいて、なぜ先生が泣きはらした目をしているのか、なぜ外で歩いてはいけないのか、まったくわかりませんでした。

 次の日の朝から、今までになかったことがいろいろおこってきたのです。

 父は前の夜、帰ってきませんでした。父はたびたび電話をかけてきて、母と長いあいだ話していました。母は泣きながら、バッグに食料品や衣類を詰めているだけでした。夕方の9時、アパートの出入口にバスが来ました。私たちは部屋をでました。母は閉ざされたドアの前で頭をさげて、アパートにお別れをしました。ほかの出入口にもバスがとまっていて、子どもとお母さんたちが乗っていました。いつもと違ってとても静かでした。まもなく父が現れ、私たちにキッスをしてちょっと一緒にいただけで、またすぐどこかへ行ってしまったのです。そこに将軍と委員会(と母が言った)が来ました。彼は何か私たちに言って、大声で笑いました。ある女性は彼にひどく怒り、私たちを元気づけることはない、早く移送しろと怒鳴りつけました。

 どのようにバスが走ったか覚えていません。とても長くえんえんと続く道だったので、うとうとして、眠ってしまいました。母の話では、朝の3時すぎに着いたそうです。私たちは、今ではキエフの軍事学校の兵舎につれてこられたと知っていますが、そのときはただ、長い空っぽのホールを見ただけで、そこには二段ベッドがいくつかあるだけでした。母はどこかに行って、私たち用のマットレスと枕を探してきました。

 今は、私に起こったことは恐ろしいことであったことを知っています。でも、当時私はまだ小さかったので、全てがとても面白いものに見えました。熱湯がでないことさえも。巡回売店がくると、そこに行こうと私は母の袖を引っ張りましたが、母はなぜか行く必要はないといいました。私は一人で走っていきましたが、全てが面白く思われたのです。

 もう、父とはまる5日も会っていませんでした。兵士と将校が車でやってきたので、私たちが彼らに走り寄ると、追い払われました。腹が立ってたまりませんでした。それでも幼い私には、興奮することばかりだったのです。

 母は、戦争のときのように父を待っていた、と今になって言っています。その後、私たちのところに棒と箱のようなものをもった人たちが来ました。私たちの放射能汚染度を計るためです。そこで私たちは「光っている」から、風呂にいくよう言われました。なんておもしろいこと。

 当時の私たちへの援助を今、評価するのは難しいことです。私たちに保証金が支払われたことは知っています。そのお金で新しい家具を買いました。私たちはチェルノブイリ原発からたった7キロのところに住んでいて放射能の汚染がひどく、何も持ち出すことが許されなかったからです。でも私は、住民への施しみたいな援助は必要ないと思います。放射線医学センターに検査に行く必要も。どんな「援助」も父を甲状腺の手術から守ることはできませんでした。でも彼だけとは思えません。母は、自分の腫れ物はみんなチェルノブイリによるものだと考えています。このことについて、私は話したくありません。ただ、これが過ぎ去ってしまうことを信じたいだけなのです。

 私は、チェルノブイリがどんなに多くの人々の生活を、そして運命を変えてしまったか考えています。チェルノブイリは、私たちの大きな節目になりました。その前と後では、戦前、戦後ほどに。

 私の家族は引っ越しに慣れていましたので、汚染地区からやむをえず脱出したのではなく父の新しい任地に派遣されたのだと考えることもできますが、ほかの人にとってはどうでしょうか。自分の牛や豚、それに家や親戚の墓を捨てて、知らないところに疎開させられたおばあさんはどうなるのでしょう。70歳のおばあさんに新しい生活が始められるのでしょうか。彼女を、ふるさとの大地と過去に結びつけている木の根から切り離すようなものではないでしょうか。若いひとの場合はどうでしょう。生まれた場所、家の壁、そこで過ごした年月は、私たちにとってどうでもいいのでしょうか。私たちも木の根を切り離されてしまったのです。

 私は、なぜ、このようなことが起こってしまったのか、よく考えます。だれの罪なのでしょう。このことでの裁判があり、誰かが処罰されたのは知っています。でもこれはそんなに単純なことではありません。事故は偶然に起こったわけではありません。この事故を引き起こしたことで、大勢の犠牲者を生み出したのです。人の命は、私たちの国家のなかで最も価値のあるものではなくなってしまいました。人の命は、役人の自尊心と比べると無とおなじです。

 いま、すばらしい大地から人がいなくなってしまいました。もしかすると永遠にかもしれません。人々は苦悩し、病み続けています。誰が彼らを救うのでしょうか。誰もしてくれません。それぞれが、自分の問題を解決しなければならないのです。

死のゾーンはいらない ミハイル・ピンニック(男)

死のゾーンはいらない ミハイル・ピンニック(男)
 第四中等学校9年生 ボブルイスク町

 僕の両親はベラルーシをあちこち旅行するのが好きだ。僕もついて回って、いろんな所へ行った。僕が旅行で一番印象に残り、感動するものがある。それは戦争の史跡、われわれの未来のために戦った解放軍兵士(※)やパルチザン(※)の記念碑である。その全ての史跡には、全ての戦争の悲劇がある。そして、今また、新たな悲劇の記念碑が加わった。チェルノブイリの悲劇の史跡である。


※解放軍兵士
 ソ連軍のこと。

※パルチザン
 ナチスに抵抗して闘った遊撃隊。

 ポロシエの大地にミチノ墓地がある。これは、ミチノ村の外側に広がっている大きな死人の町だ。まだ「若い」墓地である。墓地の中央をつらぬく並木通りには、26の同じ形をした白い墓標と、小さな大理石で作られた石碑の墓が並んでいる。ここにはチェルノブイリ事故処理に参加して死んだ人を葬ってある。彼らの死は人々を動揺させた。

  あの森ではカッコウは鳴けない
  不毛の森ではないのだが、もっとおそろしいことに
  沈黙の森なのだ
  おお 人間たちよ
  気がついたのが遅かった
  チェルノブイリは核戦争なんだよ

 僕は、僕の同い年の人たち同様に汚染地区に住んでいなくてよかった。しかし、僕は自分の故郷のことで心が痛む。それぞれが自らの人生の総括をするだけではなく、祖国の運命、国民の歴史について考え、国民全体の問題の中での個人の貢献を、評価するときがくるだろう。このような考えにおいて、精神的なきっかけを与えるのは、たいていドラマチックな事件である。僕は、国中がその名を知っている人々のことについて書いてみたい。

 それは暖かい4月のライラックや桜の香りがする夜だった。突如、チェルノブイリ原発第4号炉が爆発した。23歳のウラジミール・プラビイク中尉は危険な中に突進した。その時点で、40か所以上にものぼっていた火の手との戦いを始めた。どこが一番危険なのか。決定を下すのに猶予はなかった。

 消防士は28人で、三つの消防隊から来ていた。火を消せないにしても、拡大するのはくい止めなければならなかった。ワシーリ・イグナチェンコ中尉は70メートルのハシゴをかけ登っていった。ウラジミール・チシチューラは機械棟の屋根に飛び込んでいった。現場に、消防隊長のウラジミール・チェリャートニコフ少佐が到着した。彼がみたものは恐ろしい光景だった。原子炉は燃えさかり、地獄の炎の光の中、相当な高さのところで人影がゆらめいていた。そこが最も危険な場所だった。チェリャートニコフ少佐は、ビクトル・キベソク、ウラジミール・プラービック、ビターリー・イグナチェンコ、ニコライ・バシチューク、ウラジミール・チシチューラ、ニコライ・チチェノークが絶体絶命の状況におかれていることを理解した。機械棟は火事から守られた。消防士たちは、十分に職務を果たした。なぜなら彼ら一人ひとりは、逃げてはいけない。自分たちには、子どもや父や母、年寄りがおり、故郷があるのだということを理解していたからだ。彼らは、自らの命をかえりみず、崇高な献身的精神で、炎との戦いでお互いに先を争って挑もうとしていた。

 レオニード・チェリャーニコフは380レントゲン(※)の放射線量を受けた。2か月の間、医者は彼の命のために闘った。奇跡が起こった。この勇敢な将校は生き延びたのだ。


※レントゲン
 放射線の照射線量の単位。

 240人がこのとき25から100レムの放射線を浴びた。大胆さと勇気と自己犠牲の精神である。どうしたらこのような精神が身につけられるのであろう。僕はこの地獄の試練を受けた人々の英雄的行為に頭が下がる思いがする。彼らの功績は、大祖国戦争(※)の時の解放軍兵士たちの功績にひけをとらないものである。

※大祖国戦争
 第二次世界大戦の独ソ戦の呼称。

 チェルノブイリ。チェルノブイリの悲劇。この苦しい時期、人々はそれぞれ異なった行動をした。ある人たちは、パニックにおちいり、ある人たちは、脱走してしまった。しかし、ほとんどの人々は英雄的にがんばったのである。不幸は、レントゲンのように、一人ひとりの心を透かしてみせる。

 時がたっても、多くの人がチェルノブイリの悲劇のなかの勇敢な戦士の名を忘れないだろうと、僕は信じる。チェルノブイリによる苦痛は、子どもたちの夢のような療養のための外国旅行によっても静められないし、政府の住民への追加補償の約束によっても消し去ることはできないし、医者の楽観的な診断によってもやわらげることもできない。これらには全て嘘の印が押してある。

 チェルノブイリ事故は大地を揺り動かし、われわれの生活を変えてしまった。日常会話が「放射能」「レム」「キュリー」などの用語でいっぱいになった。われわれの全ての生活がチェルノブイリを考慮にいれてつくられている。

 有刺鉄線、重苦しい通達、居住禁止区域。これは戦争の記録映画ではないのだ。今、ここベラルーシで起こっていることなのだ。チェルノブイリゾーンは、穀物を栽培してはいけない、水も飲んではいけない、空気を吸うのも危険で、父祖の家も永久に住めないところなのだ。チェルノブイリで汚染された土地には、僕たちの子も孫も帰れない。それでも、セシウムやストロンチウムに冒された畑や森や草原が治った後、いつの日にか、子孫たちが帰れるようになるだろう。大地は、太古から住み続けた主人の子孫をわかるだろう。大地は、必ず誰だかわかり、許すことだろう。僕は心からこのことを信じる。

 現在、われわれの生活には多くの困難と問題がある。われわれがどれくらい生存できるか、多くのことを成し遂げることができるかどうかは、誰にもわからない。われわれが残す足跡は、いいものでなくてはいけない。のちの人たちが思い出してくれるように。この国でこれ以上、死のゾーンや居住禁止区域ができないようにしたい。そして、チェルノブイリで破壊された地域に早く白樺の林が輝き、豊かな庭が現れ、リンゴの木にはみずみずしいリンゴがなるようにしたい。空気が自由に吸え、水が飲め、土地には種をまけるようにしたい。

  空気はきれいに
  空は青く
  畑には種がまかれ
  黄金色の小麦が
  実るように


ベラルーシにかぶさる黒い雨雲 スベトラーナ・フボロスチェンコ(女・15歳)

ベラルーシにかぶさる黒い雨雲 スベトラーナ・フボロスチェンコ(女・15歳)
 第一中等学校9年生 バラノビッチ町

  エコロジーは人間と環境の相互関係についての科学である
    ―教科書より―

 チェルノブイリ。この昔からある町の名にすでに何か暗い予言が含まれているようだ。ある「ブイリ」(※)があった。しかし、残念なことに、チェルノブイリは昔の英雄叙事詩ではなく、過去でもなく、現在の悲しみ、苦しみ、痛み、そして涙の話なのである。


※ブイリ
 出来事。

 この悲劇の土地では、すべての家、木々、植物など人々の思い出に残っている全てのものが土になってしまった。死んだゾーンだ。死んでしまったのだ。そこはもちろん強制移住地域(※)とは大きな違いがある。そこは、今はだれも面倒をみていない家や、庭や、菜園が残っているのだ。しかし、ある村ではまだ生きている人間に会うことができる。これは戻ってきた人々で、自分が育ち、愛し、夢を見、子どもや孫を育てたふるさとの村から離れていては生きていけない人々である。彼らの目をみると、目の中にあるものを長いこと忘れることができなくなるだろう。

※強制移住地域
 チェルノブイリ原発から半径30キロ内に住む人々は強制的に移住させられた。30キロ以外でも、1平方キロ当り四40キュリー以上の汚染地は、強制移住地域である。

 私は別の町に移り住んで2年になる。以前は60キロゾーン内に住んでいたが、そこからはすべての家族が立ち退いた。私は、ピオネールに入ったときのことを覚えている。私たちのピオネール隊に、同郷の消防士でチェルノブイリ原発の事故処理に参加したワシーリ・イグナチェンコという名前をつけることに決めた。ある日、彼の母が病院のワシーリを訪ねた時、彼は母親に泉の水をくんでくるよう頼んだ。ワシーリは、その水がチェルノブイリで汚染され、もう誰も飲んでいないのを知らなかったのだ。

 ワシーリの母親タチヤーナ・ペトロービナは町の美術館で働いていて、すばらしい絵についてたくさんおもしろいことを話してくれたが、チェルノブイリの悲劇をテーマにしたホールでは、彼女は何も言えなかった。しばらくして亡くなった息子の胸像が展示されるようになった。

 チェルノブイリのことが話題になると、私は事故直後の状況を記録した映画を思い出す。原発の職員が住むプリピャチの町から人々が立ちのかされている時、小さな男の子がはぐれ、ただ一人残された。男の子は町をさまよい歩き、母親を探しまわった。彼にはなぐさめてくれ、落ち着かせてくれる母親が必要だった。けれど、まわりには誰もいない。置き去りにされた子猫を見つけ、胸に抱いて、一日中町を歩いた。その日の夕方、男の子は、放射能を致死量(※)被爆し死んでしまった。


※致死量
 人体が死に至るほどの放射線の量。人間の場合、600レントゲンの放射線を一度に受けると100%死亡すると言われ、これを100%致死線量、400レントゲンでは50%死亡するとされ、これを50%致死線量という。

 ある日、チェルノブイリについての展覧会で、一枚の絵が私を動揺させ、長いこと忘れられなかった。その絵では、美しい少女が穏やかな青い海にいて、その少女の頭の上には黒い雷雲がかかっているのである。画家は私のベラルーシを描いたのではないかと思われる。彼女は、輝かしい幸せな岸辺にたどり着くことができるのだろうか。
 私の国の歴史には黒いページは少なくない。その中で最も悲しいできごとは、たぶんチェルノブイリであろう。

 P.S. 私のことについて少し書きます。私は15歳です。ブラーギンに生まれ、1992年までそこに住んでいました。その後、家族全員でバラノービッチに引っ越してきました。チェルノブイリについての作文コンクールのことをテレビで知り、私も何か書かなければという衝動にかられました。この悲劇が私の家族だけでなく、多くの、多くの人をおそって不幸にしたのを知っているからです。

 私はこのコンクールに感謝しています。チェルノブイリで心が傷ついた子どもたちに、自分の悩みとチェルノブイリに関することを吐露する機会を与えていただいたことはとてもいいことだと思います。


ハッカの匂いがした オリガ・ジェチユック(女・19歳)

ハッカの匂いがした オリガ・ジェチユック(女・19歳)
 第一中等学校11年生 ミンスク市

 母が医者のところから帰ってきて、私にすべてを話した。論理的にいえば私はそこで泣くという展開だったろう。「ママ!なぜ私が。どうして」と。だが、私の代わりに母がそのことをしてくれたのだ。母は子どものように手の甲で目をこすり、泣き始め、問うのだった。「オリガ!何でお前が。何でお前が死ななくっちゃいけないの」私はただ唇を結んだまま、だまって途方にくれるだけだった。どうしていいか分からなかった。私はまだ一度だって死んだことがないのだから。

 どことなく胸がひりひり痛んだ。私はどうしても恐ろしい知らせを理解することも信じることもできず、精神状態が不安定ななかで、何度もつぶやいた。「これは何かの間違いだわ。こんなことがある訳がない。私は死なない。こんな若さで死ぬなんてことはないわ!」私はやけっぱちになって叫んだ。「私はまだ19歳なのよ!」と。

 しかし、見えないハンマーが、重たいばかげた言葉を吐き出させた。「ガンだ。あと二年。いや一か月。残った時間は・・・・・・」と。いままで私は、「残り」時間がどのくらいか、などと考えたことはなかった。

 私は小さいころのことをよく覚えている。毎朝、母は私を幼稚園に連れていってくれた。いつも寒かった。母はいつも古ぼけた秋用のコートを着ていて、寒さに震えているように見えたので、私は母が寒くないよう風をさえぎるようにくっついて歩いた。私と母は二人で生活していた。父は一緒に住んではおらず、祭日だけにやってきた。いつもキャラメル3個がお土産だった。父は正確さと一貫性が好きで、数字の3も好きだった。今、父には3人の息子がいる。もうキャラメルを持ってくることはない。

 幼稚園では、私は活発で、明るい女の子だった。遊びながら私は、一緒のグループの男の子全員とキスしたりしていた。これは「いけない」行為だった。もちろん良いことではない。ある日、母は早めに私を迎えにきた。私は着替えをしていて、女の子たちが走ってくるのが見えた。彼女たちは「オリガちゃん、逃げて。コースチャがキスしに来るわよ」と叫んだ。恥ずかしさで、私は穴にでも入りたい気持ちになった。「どういうことなの」と母は青ざめた顔で静かに私に質問した。私はだまってしまった。

 私の幼年期はおもしろいものだった。少女期はというと奇妙だった。私は友だちのお兄さんであるアルトゥールを好きになってしまった。彼はやせぎみで背が高かった。私には世界でもっとも美しい男に見えた。神様、私はどんなにか彼を好きだったことでしょう。夜空の星々に、数えきれない彼の笑顔が見えた。彼から電話があれば、すぐさまどこへでも飛んで行くつもりだった。もちろん、彼が電話などするはずはない。彼は私が恋い焦がれているなんてなんにも知らないのだから。そして、とうとう彼が美しくて華やかなファッションモデルの人と結婚するというニュースが飛び込んできた。彼は幸せだという話を聞いた。その時、私はまだ子どもで、目立たなく、美しくもなかった。私は泣きじゃくった。ほほを冷たい窓ガラスに押しつけ、夜空の星をながめようとした。でも空は雨雲が覆っていた。

 世間知らずの子どもは大人の男に恋い焦がれる。それはおかしなことだろうか。私は気を取り直してすべてを忘れ、いたたまれない失恋の痛みを胸の奥底で堪え忍んだ。日常の生活に戻った私は、学校の授業に出るようになった。あまり勉強がよくできる方ではなかった私は、何日もかかって宿題を機械的に無理に頭に詰め込まなければならなかった。

 休みになると母と一緒に、ゴメリに住む祖母のところへでかけた。そこで私の悲劇が始まった。その日、空気にハッカの匂いがした。頭がくらくらするような太陽の日差しが襲ってきて、鳥はまるで正気を失ったかのように鳴いていた。予期しない幸せに、なぜだか突然私は泣きたくなった。私は一日中外にいて、太陽にあたった。一週間後にはじめて、原発が爆発したことを知った。

 そのあとには、恐怖、パニック、奔走そして涙があるだけだった。ゴメリから脱出するためのチケットがなかなか手に入らなかった。鉄道にもバスにも、泣きながら頼んだが、だめだった。誰も我々のためにチケットをとってくれる人はいなかった。そのとき、私は自分の肉体の中で何が起こっているかを知らなかった。つまり、セシウムが骨に蓄積し、筋肉が被曝したということを。何年も経ってから、医者へ行ってきた母に、私は末期のガンであると聞いたのだ。

 どうすればいいのか。私はそれほど頭がいい方ではない。死とはすばらしいことであると証明するような、何か美しい哲学を考えつくことはできない。そして、私は神も信じない。

 教会に行ったときのことを思い出す。そこは薄暗く、香と汗の匂いが充満していた。よくとおるテノールの声がひびきわたる。群衆はなんども十字を切り、何かをぶつぶつ言っている。私のとなりのうつろな目をした女性は、調子のはずれた声でお祈りしている。「神様、お慈悲を。カミ・サーマ・オ・ジヒ・ヲ」子どもたちは、どういうお願いがあるのか分からないが、特徴のある発音で、奴隷の早口言葉を繰り返していた。私はいたたまれなくなり、出口に突進した。

 人は将来への幸福の夢で、現在をなぐさめるために神を考え出した。私は強い。信じないから、なぐさめはいらない。もし神がいるのなら、チェルノブイリの悲劇は起こらなかったはずだ。

 入院患者用の服を着た幽霊のように青白く、目の下に恐ろしい斑点ができた女の子が、細い指で強く私の手を握りしめながら話した。「おかしいでしょう?」と彼女は行った。彼女は私に何回となく、自分の生い立ちを話すのだった。しかし、私はなぜか笑うことができなかった。彼女の目は燃えているようだった。このオーリャは白血病(※)で、あと一か月の命と宣告されていた。これは全くおかしなことではない。彼女の笑みは私の胸を痛めつけ、私はどなりたくなった。「なんで笑っているの。ばかじゃない。死ぬということは、永遠の別れなのよ」と。私の考えに応えるように、彼女は笑うのをやめて窓のほうを向き、ゆっくりとこう言った。「死ぬということはもちろん怖いことよ。私のことを書いて。お願い。父がそれを読んで、私のことを知るわ。父は一度もここに来たことがないの」彼女は手のひらで、乾いた目をこすった。


※白血病
 白血球が増加し、血液中の白血球が異常に多くなって起こる病気。

 チェルノブイリが語られるとき、私はなぜか巨大な原発、石棺(※)、黒鉛棒(※)の山を連想する事もなければ釘付けされた家、野生化した犬、死と腐敗の匂いのする汚染地区の姿が現れてくることもない。私はただ、死んでいくオーリャを見つめているだけだ。彼女はまるで四六時中詫びているようだった。彼女は死ぬことと、そして、生きてきたことの寛大な処置を乞うのだった。

※石棺
 事故を起こしたチェルノブイリ4号炉は、コンクリートで塗り固められ、石棺(石のかんおけ)と呼ばれている。腐食が進み、新たな問題になっている。

※黒鉛
 チェルノブイリ型原発で中性子の減速剤として黒鉛を用いる。

 オーリャはお母さんを愛していた。オーリャは生命を愛していた。

 かわいそうなオーリャ。どうしたら、放射能が充満し、神さえも見放してしまったこの世に生きることが好きになれるの。人間の愚かしさに呪いあれ。チェルノブイリに呪いあれ!

家のそばの花 ナターリア・ヤルモレンコ(女・16歳)

家のそばの花 ナターリア・ヤルモレンコ(女・16歳)
 ブラーギン中等学校11年生

  チェルノブイリの灰を
  塵のように
  風が吹き飛ばす
  どこに?
  私たちはこの世の
  黒い不幸のとりこだ
   ルイゴル・ボロドゥーリン

 あの、4月26日の夜がしだいに遠ざかっていく。プリピャチの町、その周りの小さな美しい村々、古代からの町チェルノブイリ、ポレーシェを、そして全世界を揺るがしたあの夜が・・・・・・。

 私たちは、今、ようやく、事故の被害や損害の実態を、全体的に知ることができるようになった。しかしそれは、有名な科学者や専門家の予測をはるかに超えるものとなってしまった。事故の直後、人々は黙り込み、事故について話すことは避けられた。そのため、正確な情報によって事故の真実を知ることは、一般の人々には不可能だった。本当の事態が隠され、人々は事故の影響を楽観的に考えていた。住民は、放射能汚染の危険性を知らされないまま放置され、貴重な時間が失われていったのである。

 私たち汚染地区の住民は、あさはかにもすべてを信じ、何事もなかったかのように生活していた。放射能の雨に濡れ、スタジアムではスポーツ大会が開かれ、戸外でピロシキを食べ、森を散歩し、大人たちは今までと同じように畑で働いた。けれども、あの年のメーデーに、私の両親は私たち兄妹をデモに連れて行かなかったことを覚えている。今考えてみれば、私たちが少しでも被曝しないように、という両親の直感がそうさせたのだろう。だが、放射能の雨を止めることは誰にもできなかった。

 あれは日曜日のこと、私が家の周りに花の苗を植えようとしていると、雨が降ってきた。私は、苗を植えるのに丁度いい雨だと思い、下着まで濡れながら全部の苗を植えてしまった。兄が私を手伝ってくれた。家に入って初めて気がついたのだが、私たちの服と靴に緑色の何かがびっしりとついている。兄はそれを、風と雨が運んできた植物の花粉にちがいないと言った。ところが、その時私たちにはわからなかったのだが、それは気味の悪いチェルノブイリの死の灰(※)だったのだ。その灰は、私の服だけではなく、私の体に、血液に、そして私の運命にまで入り込んできた。私は今16歳で、もう7年間も甲状腺の病気をかかえ、ゴメリ腫瘍(※)保健診療所に通っている。病気が悪化しないように、いつも薬を飲んでいなければならない。今が、人生のなかで一番楽しい時期のはずなのに、私の心は悲しみに沈んでいる。なぜ、私はこんなに苦しまなければならないのだろう。将来、私はどうなるのだろうか。チェルノブイリは、私から健康な体を奪った。そして、それだけでは足りないとでもいうように、私のふるさとをひきちぎり、私の親戚や知人を、遠く離れ離れに暮らさなければならないようにしてしまった。私たち一人一人の魂を耐えがたい苦しみと、片時も忘れることのできないふるさとへの思いが焦がしている。


※死の灰
 事故の時放出された、様々な放射性核種(放射線を放出する元素)や、放射能を帯びたチリ。

※腫瘍
 異常増殖をする細胞の集まり。悪性のものにガンなどがある。

 汚染されたプリピャチ川の水、毒された泉、古く美しい森、実り豊かだった畑。そこから永久に別れなければならなくなっても、私の魂は、ふるさとの井戸、納屋、なつかしい私の家にとどまっている。チェルノブイリは、冷酷な核戦争と全く同じように、子どもも大人も容赦なく次々に新しい犠牲者を生みだしている。原子力発電所の恩恵などほとんど受けなかったような普通の人々が、結局は事故の報いを受け、自らの命や健康、打ち壊された運命などの、最も重いつけを払わされている。放射能汚染地区に住んでいた多くの人々が、ふるさとに永久に別れを告げた。特に大人たちにとって、全く新しい土地に根を下ろすのがどんなに困難なことかを、私は、祖母やナージャおばさんの悲しい目の中に見る。彼女らは、住み慣れたラファロフ村を追われ、今では、ベラルーシの別々の場所に住まなければならなくなった。ラファロ村のきれいな花々、熟したリンゴや、柳の下の透き通った泉は、突然変異によって人の背丈よりも高くなった、気味の悪いヒレアザミ(※)におおいつくされてしまっている。

※ヒレアザミ
 きく科の植物。スカンジナビア半島を除くヨーロッパ全域に分布し、高地や荒野に生える多年草。

 もう一人の祖母、アレーナおばあちゃんが住んでいたクルグルードガ村も、今ではもう存在しないことを思うと私の心は痛む。彼女は、一生を過ごした生まれ故郷の村が、どんな恐ろしい運命に見舞われたか、知らずに死んだ。彼女の死後すぐに、クルグルードガ村は村ごと埋められてしまい、今では、すっかりさびた水揚げポンプの塔だけが、まるで死んだ集落の墓標のようにそびえている。

 私たちのブラーギン地区だけでも8つの村が消えてしまった。この世に存在しなくなった村々を追悼する儀式が行われた日のことを思い出すと、私の心臓は苦痛で止まりそうになり、涙がとめどなく流れる。こんなことが、この平和な時代に起こっていいものだろうか。けれども、これが現実なのだ。チェルノブイリは、私が子どもの時にはだして歩いた美しい小道を、私の両親の家を奪った。このことを私は決して許すことはできない。

 チェルノブイリは開いた傷のようなものである。事故による犠牲者は数え切れない。こんなつらい現実のなかで、親切な言葉や行動で私たちを支えてくれる人々の存在がどんなに大きな救いとなっていることだろう。彼らは、ベラルーシの子どもたちを療養のために外国に招待してくれている。不幸に国境はない。私たちの苦しみを黙って見ていることのできなかった世界中の人々が、私たちに援助の手を差し伸べてくれていることを、私は地に伏して感謝したい。

 私たちの国をおそった不幸が、地球に住むすべての人への警鐘となり、同じような不幸が決して繰り返されることのないよう祈りたい。

 地球上に生きる一人ひとりに、毎日太陽がやさしくほほえみかけ、それが放射能のにごったもやでくもってしまうことがありませんように。そして、未来が暗く、希望のないものに変えられてしまうことがありませんように。私たちの地球が永遠でありますように。

 ポレーシェに生命が消えてしまうはずがない、というかすかな希望が今でも私の心に燃えている。

 神様、お願いします。


空が急に暗くなった・・・・・・ オリガ・アントノビッチ(女)

空が急に暗くなった・・・・・・ オリガ・アントノビッチ(女)
 第10中学校8年生 ゴメリ市

 4月26日は、すばらしく美しい日でした。

 あの日、私たち家族の友人が子どもを連れて、私の弟・サーシャの誕生日のお祝いにやってきました。私たちは長い時間、一緒に公園を散歩したり、ブランコで遊んだりして、みんなとても満足でした。すると突然、空が暗くなり、強い砂嵐が吹いてきたのです。私たちは急いで家の中へかけこみました。風は弟のパナマ帽(※)を吹き飛ばし、砂は目や鼻や髪に容赦なく吹きつけました。


※パナマ帽
 パナマソウの若葉を編んで作った帽子。軽くて柔らかい。

 メーデーの祭日です。

 木や草は威勢よく緑色を増し、栗の木はろうそくの炎のような形の芽をのぞかせていました。しかしその時、誰も危険がどこにでもあることを、まだ気づいてはいなかったのです。

 私の弟はその時まだ2歳だったので、なんでも口にしたがりました。石でも、小枝でも、木の葉でさえもそうです。弟には「だめよ!」といつも言っていました。

 その後、子どもたちは放射能から避難するために、よそへ送られました。しかし、そのときには、すでに遅かったのです。

 子どもたちは学校のクラスごとにまとまって避難させられました。そして、子どもたちには教師や親が付きそいました。私の祖母は低学年のクラスの教師をしていたので、母と一緒に見送りに行きました。その時、駅にはあふれるばかりの人々が集まっていたのを覚えています。

 親たちは一方にならび、子どもたちと先生は列車の側に立っていました。みんなが泣き、お互いに抱き合い、それはもう再び会うことができないかのような光景でした。

 祖母が自分のクラスの子と一緒にひと夏を過ごしたのは、北オセチアの地でした。祖母は今でもそこでの出来事を話してくれます。全く知らない人々が出迎えてくれ、手を取って列車から降ろし、家に招待し、果物や花を届けてくれさえもしたそうです。祖母は今でも北オセチアの教師たちと文通しています。今、北オセチアでは戦争が起こっており、人々はそこでも苦しんでいるんです。

 5月の半ばだったと思いますが、私は母と弟と一緒にモスクワへ行きました。祖父の知人から電話があり「そちらは大変でしょう。こちらに来ませんか」という誘いがあったのです。

 私たちはそれほど大きくない二部屋あるアパートの一室に住むことになりました。近所の人々は親切でとても思いやりがありました。

 父は私たちと一緒にモスクワへは行きませんでした。父は警察の将校です。彼は30キロゾーンに派遣され、住民の避難の手助けをしました。ゴメリに戻ったのは86年8月です。

 私たちはチェルノブイリの災害から逃れようとしましたが、それは私たちを逃しはしませんでした。

 チェルノブイリ。私はこの言葉に苦い味を感じる。それは歯にはさまり、舌の上でころがり、のどにつかえる。

 チェルノブイリ。お前は家族の喜びを台なしにし、母の明るい笑い声を奪い、母の瞳から喜びの色を消し去ってしまった。

 お母さん。私はあなたの本当の幸せをもう見ることはないでしょう。あの日からです。ミンスクの放射線医学センターで、弟が甲状腺(※)を病んでいることを知らされ、泣きくずれてしまった。どうしようもない不安が両親の心に居座った。それから弟の病気を治すために、地獄の苦しみを味わうことになるのです。母は自分の手で弟を手術台に運びました。2回の手術、長い苦しい治療、全面的な検査が・・・・・・。


※甲状腺
 前頚部での頭と気管の移行部にある蝶形の内分泌線。ヨード含有率の高い甲状腺ホルモンを分泌し、生体の代謝を調節している。

 私の弟は、チェルノブイリの最初の犠牲者の一人になってしまいました。ベラルーシ全体ではどのくらいいるのでしょうか。

 町に「悲運の子どもたち」という組織がつくられました。血液や甲状腺の病気の子ども、チェルノブイリ原発の事故で苦しむ子どもをもった家族が手を結んでできたのです。ドイツ、イタリア、オーストリア、その他の国の普通の人々が、子どもたちへの援助をしてくれています。彼らはその子どもたちを家庭に招き、暖かく、優しくもてなしてくれています。

 サーシャが病気の子どもたちと一緒にドイツにいった時、私もついていったことがあります。そのグループの中にカーチャという明るく感じのいい少女がいました。彼女の病気が重いとは誰も信じませんでした。春にドイツに一緒に行ったのですが、秋にはカーチャが死んでしまったことを知りました。

 サーシャの机の上には折り鶴がのっています。ミンスクの病院を訪問した日本の医者がサーシャにくれたものです。遠いヒロシマの女の子のことを聞いて、サーシャが泣き出したことを覚えています。しかし、彼女も不幸から逃れることはできませんでした。そして、折り鶴も最後まで折ることは。

 ヒロシマ、チェルノブイリ・・・・・・。私たちは、こんなに小さい星に生きているのに。

 この恐ろしい悲劇の灰は、決して心の中で冷たくなることはない。

チェルノブイリの黄色い砂 エレーナ・ドロッジャ(女・16歳)

チェルノブイリの黄色い砂 エレーナ・ドロッジャ(女・16歳)
 アタレズ中等学校10年生 スタルブツオフ地区

 暗黒の言葉が まるで黒い太陽のように
 冷酷に ベラルーシの大空に のぼった。
 それは あたかも黒い日食のごとくに
 ものみなを黒く汚しつくした。
 緑の草も 澄んだ水も 青い空も。
   ヤンカ・シパコフ

 私は16歳です。チェルノブイリの悲劇のなかを生き続けるすべての人と同じように、私の時間も二つに引き裂かれてしまったようです。1996年4月26日以前、そしてそのあとに。

 私たちはチェルノブイリからそう遠くない所に住んでいました。母はよく原発の町からおいしいものを買ってきては、私たちに、電気を供給してくれる原発の話をしてくれました。

 ある日、村に発電所で爆発があったといううわさが広まりました。この村からチェルノブイリ原発に働きに行っている人の口からです。でも、誰もそれが大変なこととは思いませんでした。

 次の日、ソホーズ(※)の競技場で、地区対抗サッカー大会が開かれました。私は両親と兄と一緒に、一日のほとんどをそこで過ごしました。突然雨が降り出しました。私たちはその雨を手のひらで受けながらはしゃぎ回っていたのです。その生暖かい雨が何を含んだものなのかを全く知らずに。そして待ちに待ったメーデーの祝日がやってきました。競技場は音楽や歌が流れ、大変なにぎわいでした。人々は、メーデーを祝い、緑あふれる季節を楽しんでいました。


※ソホーズ
 国営農場。コルホーズは集団農場。

 けれどついに不安が村を襲ったのです。母はとても心配そうに、昼間ちょっとだけ家に寄り、私たちに外に出ないようにと告げました。プリピチャに向かう国道を、何日も何日もいろいろな車の列が延々と続いていました。

 5月6日になり、親戚の人が来て、兄と私たちを連れて帰りました。それまでは、私は親と離れて暮らしたことが一度もなかったので、二日もたつと、もう帰りたくてたまらなくなりました。「ストレリチェボに帰ってはいけない、両親は今とても忙しいんだから。でも心配することは何もないよ」と説明されました。私はその時はまだ、何か月も家に帰れなくなったり、ボロブリャニの病院に入院しなければならなくなるなんて、そしてボリソフ地区のピオネールキャンプ(※)に行くことになるなんて、想像もできませんでした。


※ピオネール
 少年・少女の組織

 それでも私は、8月の終わりに自分の村に戻ることができました。本当に嬉しかった。でもここで一体何が起こったのか、不思議でたまりませんでした。景色は去年と全く変わらず、とても美しかった。ただ、菜園ではなぜか花が刈りとられていました。学校の周りもすっかり居心地が悪くなっていました。植え込みや花壇はもう元の姿はなく、黄色い砂に覆われていました。まもなく私たちは、毎日12時間学校にいなければならなくなりました。道路や競技場や森は危険地帯とわかったからです。私たちが放射能に被ばくしないようにと、政府が出した命令だったのです。

 そしてまた、旅が始まりました。私たち低学年の子どもは、アナパに療養に行くことになったのです。私たちのために南部の方から知らない先生がきました。とても親切で優しい女の先生たちで、黒海の話や、私たちがこれから行くサナトリウムが、とても美しくて素敵な所ということを教えてくれました。でも私たちはそれどころではなかったのです。両親と離れ、心の中は心配や不安でいっぱいでした。今すぐに引き返したいと、心いっぱい願っていました。

 黒海の海岸で過ごし、勉強したり遠足に出かけたりしました。でも心の中は故郷のことが心配で、毎日寂しくてたまりませんでした。そんなある日、母が訪ねてきてくれたのです。母を見つけ駆け出した時の喜びは、一生涯忘れることはないでしょう。私だけではなく、私たちの学校の生徒もみんな駆けてきました。みんな、親戚や知人のことを聞きたかったのです。母はみんなにキャンディを配りました。みんな自分のお母さんからもらったみたいに喜んでいました。私は最高に幸せでした。

 でも母は、すぐ村に戻らなければなりませんでした。たいへんな仕事が待っているからです。母は村のコルホーズの責任者をしていました。母は微笑みながら、私に元気を出すようにと言いました。でもその母自身も、私以上につらそうに見えました。

 1989年、兄がひどい病気になりました。両親は引っ越すことを考え始めました。両親が私たちに引っ越しを告げた時のことは、決して忘れられません。兄は何度も何度も両親に頼みました。「ママ、パパ、どこにも行かないで。僕はすぐ良くなるんだから。もしみんなが引っ越しても、僕ここでおじいちゃんといっしょに暮らす」と。私たちは引っ越しをやめました。兄はずっと病気で、何度も入院を繰り返しました。両親も病気がちになりました。

 ストレリチェボでは、石造り二階建ての、新しい街の建設が続いていました。でも誰がそこに住むのでしょうか。以前母は、「ここは安全だ」と言っていた政府の幹部や科学者を無条件に信用していましたが、今それに疑問を抱きはじめ、絶望と不安の表情で、「チェルノブイリゾーン(※)で暮らすのは危険だ」と訴える人の声に耳を傾けるようになりました。


※チェルノブイリゾーン
 チェルノブイリ原発事故によって、半径30キロの住民13万5千人が避難した。ゾーンから一歩外に出ると、そこは安全といわれたが、3百キロ離れたところでもひどい汚染地帯が見られる。30キロゾーン。

 「ゴメリスカヤ・プラウダ」や「家族」などの新聞に、母の論文が載りました。そして、ミンスクで開かれた子ども基金の総会で母が行った「チェルノブイリの子どもたち」と題する演説がラジオで流されました。それは、自分の子どもだけでなく、チェルノブイリの放射能によって命と健康が冒されている全ての子どもたちのことを心配する、母親の魂の叫びでした。

 1990年4月の頃、3か月にわたって、私の学校の生徒は全員、ゲレンジックに連れてこられていました。そこで私は、チェルノブイリの悲劇をテーマにしたテレマラソン(※)のテレビ番組に出演していた母を見て、とても誇りに思いました。母はそこでもソトレリチェボの学校の生徒たちが直面している、困難で危険な状況を語りました。放射能の値が15から40キュリー(※)以上もあるのです。チェルノブイリの事故は、戦争に匹敵するほどの大惨事なのです。私は長い時間この番組を一生懸命見ました。


※テレマラソン
 長時間のチャリティー番組

※キュリー
 放射性物質の量(放射能の強さ)を表す単位。1秒間に370億個の原子核が崩壊して放射線を出す放射能の強さが1キュリー。新しい国際単位ではベクレルを用いる。

 私がゲレンジックから帰った先は、故郷の村ではなくて、新しい土地、ソトルフシチナでした。私たちの新しい家は、村のはずれの、森のそばにありました。周りのもの全てが知らないものばかりで、なじめませんでした。

 気づかないうちに、夏が終わっていました。9月1日に新学年が始まります。7年生になった私は、新しい学校で泣きじゃくりました。先生やクラスメートたちは、私をなぐさめようと努力してくれました。彼らは、私が故郷の学校や友だちから離れ、とても寂しく泣いていることを理解できたからです。

 でも時がたち、私たちは少しずつ、新しい生活に慣れてきました。両親はここの名前を、間違えて前の地名で言うこともなくなりました。私はここで新しい友だちができました。

 私たちが苦しかったとき、優しいことばや思いやりで私たちを助けてくれ、今も、苦しいときも楽しいときも一緒にいてくれる、この村の人たちに感謝しています。両親も、一緒に働いている人たちが、とても親切にしてくれるといいます。でも、夢の中に出てくるのは、アターレジではなく、ソトレリチェボです。故郷は、なにものにも替えがたいものなのです。

 今これを書きながら、私の目には涙があふれています。70になる私のおばあちゃんが紙切れに書いた言葉を思い出します。「本当のことを言うと、家に帰りたい」と。

 誰がおばあちゃんを救ってくれるのでしょうか。誰が、ゆがめられた運命を背負わされた何千もの人々を救うのでしょうか。誰が、数百年も元にもどることのない放射能汚染という病におかされたこの大地を救うのでしょうか。

 母は小さいころから私たち兄弟に、正直な人になるようにと教えてきました。ベラルーシの国民が国家の重要ポストに選び、私たちの運命を託してきた人たちは、親からどんな教育を受けたのでしょうか。誰が彼らを選んだのでしょうか。誰が彼らに、嘘をつき真実を隠す権利を与えたのでしょうか。私は彼らの名前を知らないから、ここに挙げることはできません。でも、高い地位はないけれど善良な心を持っていて、困難な現実のなかで自分の意志で義務を果たしている科学者や医者や文学者の名前を挙げることはできます。

 私たちの学校にきた、作家のウラジーミル・リープスキーさんとワシーリ・ヤコベンコさんに感謝します。私たちは彼らと会って、自分の運命が、とても大切な意味を持っていることを知りました。そして彼らの論文を新聞で読み、子どもながらに、彼らがあれほど情熱的に書くのは、私たちの運命が彼らをふるい立たせたからだと感じました。

 悲劇のホイニキの大地が、ボリス・サチェンコ、ミコラ・メトリッツキーを育てたのです。現在の彼らの作品には、故郷の苦痛が描かれています。放射能は、イワン・シャミャーキンの故郷もよけては通りませんでした。彼は、ポレーシェ(※)の人々の性格や習慣、こまごまとしたことまでよく知りつくしているので、チェルノブイリの悲劇を書かずにはおれなかったのです。小説「不吉な星」を家族全員で読みました。父は「すべて本当のことだ。フィクションではなくて、ドキュメンタリー作品だ。まるで私が、不幸の始まりの日々のできごとを彼に話したみたいだ」と言いました。


※ポレーシェ
 プリピャチ川流域の広大な湿地帯。

 今私たちに書く順番が回ってきました。忘れてはならないことを書きましょう。将来のベラルーシのために、ベラルーシ国民の繁栄のために。そしていつかまた大きな災難が国民をおそったとき、誰も「なんでもなかった」とか「放射能では死なないし、病気にもならない」などと言えないように。忘れてはならないのです。こんなことは、もう二度とくりかえされてはならないのです。
プロフィール

子供たちのチェルノブイリ

Author:子供たちのチェルノブイリ
昔、こどもたちのチェルノブイリの作文集を選ぶボランティアをしました。この時の衝撃は今も心に残っています。
 連絡先
 ohanamoon@gmail.comまで

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