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母のもとに6人残った エレーナ・メリニチェンコ(女・17歳)

母のもとに6人残った エレーナ・メリニチェンコ(女・17歳)
 専門学校生 ジェルジンスク町

 私の人生は、幼いあの日以来、悲しくて不幸なものとなった。あのとき、私は小学2年生だった。それ以来、人々の苦悩や悲しみを、否応なくこの目で見てきた。そして私自身も、家族と共にそれに耐えてきた。

 私のうちは大家族で、事故がおこったときは私たちはボゴンノエ村に住んでいた。

 今、4月のあの日の朝を思い出す。天気がよく、とても暖かくおだやかな日だった。大人たちは仕事に、子どもたちは学校にでかけた。外の空気は新鮮で、緑はあざやかに萌え、鳥たちも楽しそうにさえずっていた。木々には若葉が芽を出し始め、太陽はしだいに日差しを強めていた。

 学校に行ってまもなくすると、机に座っているのがたまらなくなってきた。他の子どもたちも、目がまわるとか、目に激痛がはしるとか、体がだるいとか、眠気がするとか訴えるようになった。何がおこったのか分からなかったが、とにかく普通ではなかった。

 村全体をおびやかす恐ろしいことが起こっていることを、誰も推測できなかった。そして数日すると、避難することになった。それは今思い出しても胸が痛む光景であった。子どもは泣き叫び、心に深い傷を負ったお年寄りは、自分の家、ふるさとを置いたまま別れ、知らないところに行ってしまうのがとてもつらく、なかなか動けなかった。

 数日分の必要なものをもって避難するようにと言われた。ある人はもっていき、ある人はなにも持たずに出て行ってしまい、またある人はただたたずむだけだった。なぜなら、そんなことは経験したこともない出来事だったからだ。

 そこには狼狽と絶望だけがあった。どれだけの涙が流されたことか。

 私たちはゴメリに連れて行かれ、放射能の測定をされた。服と靴の汚染の値が大きかったので、それらは焼却のために全部脱ぎ捨てなければならなかった。また、検査のために病院にも入れられた。検査のあと、母と4年生になる兄のビョートル、まだ11カ月の小さい弟と私はミンスクトラクター工場のサナトリウム(※)に送られた。年上の兄や姉たちがどこに送られたかは分からなかった。


※サナトリウム
 療養のための施設

 母はそのことで非常に心配したが、親切な医者のおかげで、ビチェブ州シュミリノにある労働休暇キャンプにいることがわかった。父はミンスク郊外のペトコビッチ村で組立工の職に就くことができ、そこの寮に住むことになった。しばらくして上の兄と姉たちから手紙が送られてきたが、その手紙には、親元から離れて生活するのはつらく、環境も非衛生的だと書いてあった。そこで父は兄たちを引き取るためにキャンプにでかけ、一緒に住むようになったのだが、3人に1つのベッドしかない父の寮には長くは住めなかった。私たちのサナトリウムも修理で閉鎖されることになり、父はアパートを見つけ、私たちを引き取った。みんな元の家に戻りたいと気はせくばかりだった。けれども、そのとき初めて聞いたのだが、私たちの村は有刺鉄線で囲まれ、もう誰もそこには住んでいなかった。村の人々はちりぢりになってしまったのだ。

 数日後、ジェルジンスクにまた引っ越した。そこのアパートの部屋は2つに分かれており、そこに2家族で住んだ。私たちは9人家族、となりは4人家族だった。私たちは中学校に通い始めた。生活は大変で、秋になっても暖房も入らず、その上、ふとんも毛布もないまま、床に寝るしかなかった。

 町の人たちみんなが私たちの悲しみや痛みを理解してくれたとは言えない。彼らは用心深く私たちに接し、私たちをよそ者として扱った。大人も子どもも同じだった。

 1987年3月、ここジェルジンスク地区のペトコビッチ村の一戸建ての家が提供され、私たちは大喜びした。その美しい大きい家に引っ越し、そこから村の学校に通った。しかし、その喜びも長続きはしなかった。私たち兄弟はつぎつぎ病気になり、授業にも出られなくなった。兄弟全員が放射線医学診療所に検査のため行くことになった。それから私たちは毎年検査に通っている。

 あるとき検査で父の血液分析の結果がよくなかった。その3カ月後に父は死んだ。1988年6月のことだった。

 悲しみと痛みは私たちを襲い続けた。同じ年に祖母と伯母が亡くなった。強く恐ろしい衝撃だった。そして、母のもとに私たち6人の子どもが残った。母は一人で家族を支えなくてはいけなくなった。

 その悲しい出来事のあと、母はよく病気をするようになったが、不幸や困難を克服しようと、私たちをあたたかさと、そのやさしい愛で包んでくれた。そして、私たちは母の涙と苦しみが少しでも減るように、母を理解するようつとめた。

 何年かが過ぎ去った。生活も少しだけ変わってきた。私たちの心の痛みや悲しみも少しはおさまってきている。

 私たちは今もペトコビッチ村に住んでいる。数年のあいだに、二人の姉と上の兄が結婚した。二番目の兄は軍隊に入り、私は専門学校で勉強している。一番下の弟は3年生になった。ふるさとの村の大部分の人たちは、ジロービン地区に住んでいて、兄は今、そのジロービンで仕事をしている。私は彼のところに行って、もとの村の人たちに会ってみたかった。私は母といっしょにジロービン地区のキーロボ村にいき、同級生に会った。彼女とは、いっしょに遊び、学び、とても仲良しだったのだ。でも8年たった今、顔を合わせても、お互いにわからなかった。お互いに成長し、変わったのだから仕方がないけれど、新たに知り合いになったという感じだった。私の心には、喜びと腹立たしさの感情が同時にわいてきた。同級生や友だちに会えたという喜びと、いまいましいチェルノブイリのせいで一緒にいられたものが長い間会うことができなかった腹立たしさと痛みだ。私はその村から帰りたくなかった。

 私は帰りながら、多くの悲しみや不幸を自分の肩に背負わざるをえなかった母のことを考えた。そしてチェルノブイリによって、破壊され、不幸にされた多くの人々の運命について考えた。とくに罪のない子どもたちが、いまでも苦しんでいる。しかも彼らは、自分たちの幸せと健康を奪い去ったものが何者かさえ知らないでいるのだ。

 これから先何年たっても、この悲劇は、社会生活、多くの人々の運命、すべての世代の記憶に消し去ることのできない痕跡を残すだろう。

 おぼえておいて みなさん
 原子力(※)のある限り 平和も秩序も守れない
 地球から汚れを一掃しよう
 核の狂宴のあとを 残さないようにしよう


※原子力
 原子核の分裂あるいは崩壊の際に発生するエネルギーなどを総称して原子力と呼ぶ。
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喜びは幼年期に置いてきた タチャーナ・クラコフスカヤ(女・17歳)

喜びは幼年期に置いてきた タチャーナ・クラコフスカヤ(女・17歳)
 第一中等学校十年生 バラーノビチ町

 セシウムが崩壊(※)すると
 厳しい不幸に追い立てる運命が!
 太陽の下には居場所を
 僕らは見つけられない
   ミコラ・メトリッツキー


※セシウムが崩壊
 セシウム137は崩壊して余分なエネルギー(放射線)を放出して、安定したバリウム137に変化する。

 大地は眠っていた。暗く、暖かい夜がすべてを包みこんでいた。木々のつぼみの香りでいっぱいになる春の盛りは、すぐそこまでやってきていた。

 その日、私は8歳の誕生日を迎えていた。あたりが暗くなって庭からもどってきた母は、手に白樺の枝を持っていた。その枝についた茶色の丸い実は、美しく輝き、心地よい春の香りをただよわせていた。母は、私の誕生日を祝って喜びに満ちあふれた顔をし、白樺の枝をそっとプレゼントしてくれたのである。

 だが、この毎年きまってやってきた美しく輝く自然の躍動は、4月26日の夜、巨大な目に見えない恐ろしいものによって、奪われてしまった。それまでは、緑の豊かな自然が、人々に喜びと幸せをもたらすと教えられてきた。しかし、今では花や枝を手で摘むのもいけないと注意されるようになってしまった。母はもう、私に誕生日のプレゼントもできなくなってしまったのだ。こんなになってしまった世界に親しみを感じることはできない。私たちはこれからどうやって生きていけばよいのだろうか。

 事故のあった前の日の夕方、私と弟のワーニャは父に連れられて、おばあちゃんの住むオラビッチ村へ、車で向かった。農園のじゃがいも植えを手伝いに行ったのだった。その村はホイニキの南側にあった。私は、その日のことをよく覚えている。陽が沈む前、まわりの景色はとても美しく、私と弟は、はしゃいでいた。父が遠くまでドライブに連れていってくれることがうれしかったのだ。私たちは、後ろの座席で笑い声をあげて喜び騒いでいた。父は、運転をしながら静かで楽しそうなメロディを口ずさんでいる。それは父のいつものくせだった。おばあちゃんの家に着いたのは、すっかり遅くなってからだった。首を長くして待っていてくれた彼女は、絞りたての牛乳を温めて飲ませてくれた。私たちは、暖かな喜びを感じながら、眠りについた。しかし、その眠りの間に、幸せは、永遠に私たちの心から逃げてしまうことになったのである。

 あの恐ろしい夕方から8年間が過ぎた。私はもう17歳になった。私の心は空っぽのままである。幸せは4月26日から、無限の荒野をさまよったまま元に戻っては来ない。私の心が、現実を受け入れることはできないからだ。

 いつだったか、クラスノボーリエ村から遠くない所で釣りをしていた漁師が、その恐ろしい夜の話をしてくれたことがある。彼らは、火の柱を見た。それは、天まで届きそうに垂直に立ち、黄色、白、茜色の光が同時に鮮やかに光っていたそうである。その後、火の柱は、大地を照らしながら、ブラーギンの東の方向に消えて行った。その火の柱は、大地に肉体的な痛みは与えなかったが、健康を害し、命を奪う種をばらまいてしまったのである。この大地がうずいている間は、私の心に幸せはやってこないだろう。大地のうずきはいつ消えるのか、私は知らない。私が生きている間、いつまでもこのままなのだろうか。

 祖母の村オラビッチは、いや正確に言えば、過去にあったその村は、ウクライナのヤノフ村から27キロの地点にあった。ヤノフ村の向こう側に原発職員の町プリピャチと原発が建設された。そこから15キロ離れたところにあった小さな集落チェルノブイリの名を使うことになったのである。誰が名付けたのか。それは、ウクライナのヨモギ草の名前(※)ではなく、昔、そこに人々を苦しめる痛みがあったからそういう地名になったのだと思う。最近まで緑に埋もれていたチェルノブイリの町は死んでしまった。祖母のオラビッチ村も死んでしまった。人間の生活が豊かに花開いていた土地に、いまいましい原発を建設しようと考えついた人が、今、生きていれば、呪いたい。


※ヨモギ草の名前
 『チェルノブイリ』には、「ニガヨモギ」と「チェルノ(痛い)ブイリ(できごと)」という意味がある。

 朝とは何だろうか。それは、昇ってくる太陽に向かって、自然が背伸びをし、鳥のよろこぶさえずりが空に満ちる時である。しかし、その日の朝はひっそりとしていた。不自然な静けさが、危険を知らせた。人々も自然も、それに聞き入った。放射能という名の怪物が村の遠くに現れた。その忌まわしい翼は、目に見えない毒とふるさとの消失、それに苦しみと涙を運んできた。その朝はまだ、プリピャチ川近くの草原に緑のビロードが敷き詰められているようだった。ライ麦畑は、宝石のように輝いて見えた。でももう、この美しさが、私たちに喜びをもたらすことはなかった。

 日曜日の夕方になって、ホイニキの家に帰り着くと、街の通りは死んだように人の気配がなかった。家のそばの白樺の木の下に、隣の人が放心したようにたたずんでいるのが見えた。2日あとにメーデーがやってきた。とても暑い日だった。多くの人々が子どもたちと一緒に、行進を待って昼まで外で立ち続けていた。その間でさえも、小さな子どもの体に、幾レム(※)の放射能が蓄積するかなど、誰も考えつかなかった。翌5月2日は、南の風が気味悪い雨雲を運んで来た。どしゃ降りの雨だった。雨粒はとても大きく、インゲンマメほどの大きさほどもあった。私たち子どもは、母が呼びに来るまでアンズの木の下で遊んでいて、ずぶ濡れになっていた。


※レム
 どれだけの量の放射線を生物が吸収したかを表す単位。

 その後私はどうなったのか。放射能を逃れ治療を求めて、まさに放浪の旅だった。

 ホイニキ、モロジェーチコ、ゴメリ、オルシャ、ベルグラード、ドネルトロフスク、ドウボサールイ、ボリソフ、ビレイカ、ソリゴールスク、スベトロゴールスク、ミンスクなどの土地を転々とした。放射能の悪魔が、私たちを引き回したのである。

 そして最後に、1990年、私たちは家族全員で、バラノビッチに引っ越した。今では、母の顔に悲しげな、今にも泣き出しそうな表情しか見ることはできない。引っ越しの日、荷造りを終えて、私は表に出た。あの白樺の木の下に行った。人間にとってもっとも大切な場所、私が幼年期を過ごした場所をよく覚えておくためだった。あの頃が、もう二度と帰って来ないと思うと、胸がしめつけられるようだった。

 生活は今でも続いている。夜になると、幸せだった子どもの頃を思い出してしまう。あの時は、すべてが輝いていた。しかし、それはもう遠い昔のことになってしまった。悲しみで、心がうずく。それでも生きていかなければならない。これからの私の人生で、満足や喜びを充分に感じることはできないだろう。それは、幼い頃の楽しい思い出が途切れたあの恐ろしい日に、置いてきてしまったのだから。

私にふるさとをかえして ジアナ・バルイコ(女・15歳)

私にふるさとをかえして ジアナ・バルイコ(女・15歳)
 ミンスク経済中等学校9年生

 覆いはぎとられたこの世の神経は
 あの世の苦しみを知っている
  V・ビソッキー

 遠くで誰か家族の声がする。
「息が苦しいよ。ラドーチカ」
 私は夢の中でつぶやく。
 「おばあちゃんなのね、行かないで、お願いだから。
  私はおばあちゃんが好きなのよ。
  もっともっといろんな話がしたいのよ」

 「大地の揺れる声が聞こえるかい。ラドーチカ」

 「いえ、聞こえないし、何も感じないわ。私は今病院の7階に寝てるの。
  ここの窓からは、煙があがっている工場の煙突と、屋根がのこぎりの歯
 のように、連なった新築住宅が地平線まで続いているのが見えるわ。」

 「生きているものにはわからないのかい」

 おばあちゃんは苦しそうに寝返りをうち、うめき泣きながら、そう叫んだ。

 「おばあちゃん、生きていたの?
 2年前にブラーギンの墓地におばあちゃんは埋葬されたんじゃなかったの?」
 沈黙があった。

 「おばあちゃんどこなの?」

 だが返ってきたのは、静けさだった。
 私は虚脱感におそわれ、はっとして目がさめた。
 恐ろしかった。
 ドアのガラスのむこうの、長い暗い廊下のつきあたりではぼんやりとした
明かりがぽつんとひかっていた。
 町の上には灰色の朝の光があがってきた。

 われにかえったように、私はおばあちゃんを抱きしめようと、手を伸ばした。


 

 しかし、手にふれたものは、ガラスの壁だった。
 空気に突き当たったかのように感じた。
 あの世のおばあちゃんと、この世の私とをわけるガラスの壁だ。

 「忘れないようにしてね、何もかも。覚えていてよ・・・・」

 1986年4月の終わりのころ、大好きな猫がいなくなってしまった。
 その時のことを、私は今でもよく覚えている。
 5月のある日、私が家の外の椅子に座っていると、突然、白っぽく
 毛がボロボロになったものが、にゃーとものかなしげに鳴いて私の
 ひざにドスンと倒れた。
 
 「うちのルイジューハじゃないのかい。」
 おばあちゃんが叫んだ。
 「どうして。どうして、赤い色だったのに、白くなっちゃったの」
 私は聞いた。

 「白髪になってしまったんだよ。なにか、恐ろしい、取り返しの
つかないことが起こったんだよ」

 私は猫を胸に抱いた。
 なつかしい匂いがした。
 
 「ごめんね」

 聞こえるか聞こえない程度の声でささやいた。

 「私しゃもうすぐ死ぬ気がするよ。
 あそこにいたんだもの。おなかがものすごく痛いんだよ。
 あそこにいた人は、生きていけないのさ。」

 そのときには、おばあちゃんが何故そういうことをいうのか、
私もわからなかったが、この世の裂け目のふちにたっている様な気がした。
 私はその4月にすべてが始まったことを、事故が起き世界が崩れている
ことを、何故今まで知らなかったのだろう。

 92年2月、私はブラーギンからゴメリの病院に送られた。
 病室の4人は全員同じ白血病患者だった。
 うち2人はいまわしい死をやがて迎え、私とオーリャの二人が残った。

 ある日、おしゃべりをしていたときだった。
 オーリャが突然顔を曇らせて、私に質問してきた。

 「あなた、生きていたい?ラーダ」
 私の両手は音もなくひざに落ち、目から涙がこぼれた。

 「泣かないで、お願いだから。ごめんね、悲しませて。」
 オーリャは静かに言った。

 「でも、私はあなたに何もしてやれないのよ。
 私はもうすぐ死ぬわ。
 どう思う?死ぬってこわいかしら。死っていろいろあるわね。
  楽な死もあるし、苦しい死もあるし。
 私を待っているのは恐ろしい死ね。」

 「そんなふうに言わないで」

 「あなたは死なないわよ。聞いているの、オーリャ」

 私は叫ばんばかりだった。
 真夜中、夢の中で、恐ろしい叫び声と医者の声がしたが目を覚ますこと
ができなかった。
 朝になると、ベットがひとつ空になっており、私の中で何かが崩れた。
 私は何もたずねなかった。
 即座にすべてがわかった。私は泣かなかったし、叫びもしなかった。

 うつろな目で天井の黒い割れ目をながめた。
 それは一夜のうちに、以前より広がったように見えた、

 心配そうに、医者が私のところに2回もきた。
 看護婦さんが何度もきた。
 私にはかれらの話は何も聞こえなかった。
 私は虚脱感におそわれていた。

 夜、突然ふるえがはじまった。
 冷や汗にぬれ、頭をまくらにうずめていると、おし殺したおばあちゃんの
声が聞こえた。
「泣いてごらん。楽になるよ。」
 
 私は子供のころのように奇跡を期待した。
 私の身に起こったすべてのこと、チェルノブイリの事故も、白髪になった
猫も、いとしい人たちの死も夢であり、すべてが昔のままであってほしいと
思った。
 
 明日、15歳になる。
 今日、医者がなぜか暗い顔で私の退院を告げ、そして母は泣き出した。

 ブラーギンの家に帰った。
 母が、自分n妹に男の子が生まれたので、行って支えてあげなければならな
いと言っていたが、私にはさっぱりわからなかった。
 「支える」とはどういうことなのか。

 赤ちゃんの誕生は、喜びであり、幸せなのに。

 そのうえ、おばさんのところは長いこと赤ちゃんを待っていたのに。
 赤ちゃんが生まれて一ヶ月半たった今、それがどういうことかはじめて
知った。

 「ガーリャ。ガーロチカ」
 母はおばさんを抱きしめた。
 突然はげしく赤ちゃんが泣き出し、おばさんはゆりかごから赤ちゃんを
取り出して、抱いた。

 私はぞっとした。
 赤ちゃんの頭は開き、脈をうっているのが見えるのだ。

 私は外に飛び出し暗闇の庭を走りぬけた。
 私はもう少しのところで気を失いそうになった。
 私たちに何がおこっているのだろうか。

 どこの、どんな裂け目にころがっていくのだろうか。
 どうしてこの世の終わりに近づいているのだろうか。
 家の中では赤ちゃんがひっきりなしに泣いていた。
 この世に生まれたことを嘆いているように。
 
 私はそこから、町から逃げ出した。私にも何かが起こるのではないか
という不安で気がおかしくなりそうだった。
 私は野原にかけこみ、そこの冷たい湿った土の上に倒れこんだ。

 大地が悔しさで叫び、泣いているのが感じられた。
 苦い涙が私の目から流れた。
 5月の苦い放射能も、私といっしょに泣いた。
 私は暗いむなしさで叫んだ。

 「私にふるさとをかえして」

 「はだしで草原を歩きたいわ」

 「湖の水を飲みたいわ」

 「きれいな土の上に横たわりたいの」

 「暖かい春の雨で顔を洗いたいの」
 
  神様。私の言っていることが聞こえますか。

 


 
  

 
わたしたちの涙で雪だるまがとけた チェルノブイリ支援運動九州
 梓書院より

子どもたちみんなに頼みたい インガ・サドフスカヤ(女16歳)

子どもたちみんなに頼みたい インガ・サドフスカヤ(女16歳)
第一中等学校9年生 ブレスト州ドロギチン町 


 ベラルーシには、チェルノブイリの悲劇にみまわれななかった家族はひとつ
もないのではないでしょうか。

 私はそのとき8歳でした。何が起こったのか、よくわからない。放射能、原
発・・・・。
 一生懸命、頭を絞って考えました。でも興味いっぱいの私の頭では、発電所
の残骸に、大惨事の恐怖は見つけ出すことはできなかったのです。
 まだ1986年は始まったばかりで、先はまだ遠かったのです。
 今、私は多くのことがわかるようになりました。政治、経済学で起こる事柄
についても、自分なりの考えを持つことができます。
 学校で学ぶことも無駄ではありません。それらは本や新聞や雑誌を理解す
るのを助けてくれます。
 
 今では、私は1986年の春に何が起こったのかを理解することができるよう
になりました。
 そして、チェルノブイリの事故報告に、私はひどくショックを受けました。
 それによると、放射能による汚染は、あらゆる生物に対し数十年から何
百年の間有害な影響を与えるからです。
 残念ながら、わたしたちはこのことを自覚しなければならないのです。

 母と妹たちが、医者の診察に受けにいくときの、その落ち込んだ顔を見るた
びに、私の心は引き裂かれそうになります。
 私も診察を受けました。 
 でも医者が診察が処方してくれた錠剤は頭痛、だるさ、疲れやすさには長く
効きませんでした。
 これらの症状はベラルーシに舞い降りた放射能ーいまわしいセシウム、プル
トニウム、ストロンチウムによるものなのです。
 
 放射能。 
 この怪物は広い土地を占拠し、私たちに苦痛と恐怖と心配をもたらしました。
 甲状腺切除のための手術台の上でも不安は消えません。
 甲状腺だけでなく、それに劣らず深刻な病気で、効果的な治療方法がわか
らないものがたくさんあります。
 それでも、医者は全力で病と格闘しているのです。
 
 ヨウ素、昆布、くるみなどの古くからの民間療法も助けになります。
 その他に、サナトリウム、療養キャンプに行くことには大きな効果があります。
 外国に行くのも。
 そうして希望を持つことが、私たちを精神的にも回復させ、健康にすることに
つながるのです。


 私はサナトリウムやキャンプや観光地に行くことが好きです。
 でも外国に行く幸運には恵まれていません。
 しかし、このことをくやんでもいません。
 ここベラルーシでも休息がとれるし、元気になれるし、着飾って愉快に過ごす
こともできるからです。
 
 自然と素晴らしい人の中で、休みを過ごそう。そうすることで、思いやりのあ
る、優しい、素敵な人間になることができるだろうし、自然を愛し、理解する
ことを学ぶことができると思います。

 薬を飲まなくていいのなら、頭痛や甲状腺肥大のことなど忘れてしまうのに。
 でも薬なしではこの苦痛をやわらげることはできません。

 チェルノブイリ原発での事故は大きな被害をもたらしました。
 それは誰の罪なのか。社会か、原発で働いていた人なのか。偶然なのか。
 罪の大小はあるけど、きっとその全部なのでしょう。

 最も重い罪をおっているのは、事故の事実を明らかにするのを禁じたものです。
 これに議論の余地はありません。
 なぜなら4月26日、チェルノブイリ原発で大規模な火災が発生し、原発が爆
発したのを知っていたのはわずかな人だけだったのです。
 その時多くの人が知っていれば、どれだけの人が助かったでしょう。
 数百人、数千人、いえ数百万人かもしれません。

 最も恐ろしい問題は、誰が、新しい世代に健康を保障するのか、ということです。

 親は子どもたちに自然の美しさを教えてやらなければなりません。
 自然の破片や残り物でなくて、本物の美しさを。

 私は私の子どもや孫が病気になるのはいやです。
 このことがまた起こるのは絶対にいやです。

 だから子どもたちに頼みたい。
 「もう2度と過ちは犯さないでください。悲劇を思い起こしてください。
 自分たちの力で判断して過ちを犯さないようにしてください」と。

 人間は決して自然をないがしろにしてはいけないのです。
 自然はそれを許しません。
 反対に懲罰を加えるからです。
 
 

 

 わたしたちの涙で雪だるまがとけた
 子どもたちのチェルノブイリ チェルノブイリ支援九州 梓書院
 

わたしたちはすべての子どもたちのために書く エレーナ・ジクノーバ(女16歳)

わたしたちはすべての子どもたちのために書く エレーナ・ジクノーバ(女16歳)
 第179熟練工養成学校生 ゴメリ州ゴメリ市

 第三の天使がラッパを吹いた。すると、松明のように燃えている大きな星
が、天から落ちてきて、川という川の三分の一と、その水源の上に落ちた。
 この星の名は「苦ヨモギ」といいい、水の三分の一が苦よもぎのように苦くな
ってそのために多くの人が死んだ。
 聖書「ヨハネの黙示録」より

 ※注 チェルノブイリ=ニガヨモギという意味がある

 チェルノブイリ~黒いできごと~。
 数百、数千、いや何百万という命が犠牲となった。
 この八年間、「チェルノブイリは20世紀の悲劇だ」と何度も耳にしてきた。
 悲劇が私の祖国、ベラルーシを襲ったのだ。

 数百にも及ぶベラルーシの村が荒廃してしまった。
 人々はそこから脱出した。
 もう誰も夜明けの鳥のさえずりを聞くことはない。
 もう誰も春になってコウノトリに出合うこともない。
 不気味な静けさだけが漂う。
 そして時々、風がその静寂をやぶる。

 かつては友人や親戚との人間関係をしっかりと結びつけていた家と家とを
結びつけていた小道は、雑草におおわれてしまった。
 川や湖には、魚がはねて泳いでいる。
 森にはいちごやきのこが生えている。
 しかし、その中にはすでに放射能が巣くっている。
 傷だらけのベラルーシの大地は、息もたえだえになってきている。
 その大地の上で、多くの娘や息子たちが命を落とした。


 四人に一人が被害を受けた・・・
 1986年4月26日に起きたことを何といったらいいのか。
 

 その日、放射能のちりで固められた不気味で恐ろしい黒雲が、風とともにや
ってきた。
 その時から地球は、破滅的な道を歩み始めた。
 始発駅はチェルノブイリ。
 行き先は、数千にのぼる町、村、川、湖だった。

 私はその暑くてほこりっぽい一日をぼんやりと覚えている。
 まだよく理解できていなかったので、普段と変わらない日をすごしていた。
 友達と一緒になわとびをしたり、ボールを追いかけたりして何の警戒もせずに。
 輝く4月の太陽、若草、青空が嬉しかった。
 私は八歳で、ようやく世界がわかりかけていた。
 学校には大好きな先生や数多くの友達がいた。
 はじめて本を読んだのもこのころだった。
 両親も祖母も祖父も私を愛してくれ、幼児期を悲しくするようなものは何も
なかった。

 そのうち、私は恐ろしい言葉を耳にする。
 「放射能」
 「チェルノブイリ」
 「爆発」
 私はまだ幼かったので、その奇妙な言葉を深く考えることはできなかったし、
両親がなぜ「外で遊んではいけません」と言うのかわからなかった。
 青々とした草や春の大地に放射能のちりが居残ったことを、私はどうして
知ることができただろう。

 もうひとつ、鉄道の駅でのことを思い出す。
 多くの子どもや大人が集まっていた。
 母親達は泣いていたが、なぜ泣いているのか理解できなかった。
 私たち先生と一緒にほかの町に行って、一ヶ月後には帰ってくるというのに。
  ベラルーシには多くの放射能汚染地区がある。
 それを避けるため、私たちは最初の2、3年は非汚染地区につれていって
もらった子どもたちは、心細さもあったが、援助してくれる人には感謝して
いた。

 時がたち、4年後にはじめて恐ろしい事実を知った。
 病気が始まったのだ。


 医者は悲劇的な通告をする。
 「あなたのお子さんは重病です。薬が必要です」と。
 そして次には、必要な薬を求め、療養のための場所を探さなくてはならない。
 新聞やテレビで、親が訴えはじめた。
 息子や娘の命を救ってくださいと。

 母親の苦痛を何で計れるのだろうか。
 私たちは毎日毎日「同情」とか「人間性」という言葉を耳にする。
 市場や道端で、必要不可欠なのをいいことにして、薬を何倍も高く売っている
人がいる。
 このような人には、人間性があるのだろうか。
 それでなくても子どもの治療をしたり野菜や果物を買うためには、たくさんの
給料が必要だというのに。

 子どもは未来の国民だとよく言われる。
 ベラルーシではいったいどうなるのだろうか。
 今、子どもは安全な食べ物をとることができないし、適正な価格で物を買うことも
できない。
 
 テレビの画面では、たて続けに広告が流されている。
 「甲状腺の病気にならないように」と。
 チェルノブイリの罪のない犠牲者や子どものことが忘れられていることが非
常に腹立たしい。
 私たちの世代の寿命が短くなることを考えると恐ろしい。

 私はよく将来のことを考える。 
 今、16歳だ。
 いつか誰かを愛し、誰かに愛されるだろう。
 幸せになりたい。
 だが、私に健康な子どもができるだろうか。
 これからどんな運命が待っているのだろうか。

 私は放射能汚染地域に住んでいる。
 放射能は目に見えない、匂いもない。
 しかし、すぐそばにいる。
 私は汚染された空気を吸い、ビタミンのかわりに放射能がたくさんつまった
果物を食べている。
 ジュースは原料がないために輸入ものだ。

 ベラルーシは火山の島のように、不幸な国になってしまった。
 それに加えて、国民の貧困化をもたらすような深刻な経済危機が襲っている。
 人々は絶望に陥っている。
 わたしたちみんなの願いはただ生き抜くことである。

 チェルノブイリの問題は半分忘れさられようとしている感じがする。
 作文のテーマは「私たちの運命のチェルノブイリ」だが、私はこの国のすべて
の子どもと大人のために書いている。

 私たちは誰かの怠慢で起こった事故の罪のない犠牲者である。
 現在、私たちは心の冷淡さに遭遇している。
 この8年で、私たちは多くの知人や親戚を亡くした。
 腫瘍センターに入院しているチェルノブイリゾーンの子ども達の映像を見る
たびに私の心は締め付けられる。

 ※チェルノブイリゾーンとは
 チェルノブイリ原発事故によって半径30キロの住民13万5千人が避難した。
 ゾーンから一歩外に出ると、そこは安全と言われたが、300キロ離れたところで
もひどい汚染地帯が見られる。30キロゾーン

 わが大地に襲いかかった不幸を作り出したのは大人なのだ。
 赤ちゃんの目は無言で問いかけている。
 「どうすればいいの?」と。

 チェルノブイリがなければ、わたしははるかに幸せだったはずだ。
 それは激しい突風のように、私の運命の中に押し入ってきた。
 もう平穏な生活には戻れない。
 将来の希望を考えることはできなくなった。
 親戚、同年齢の友達、そしてこの世に生まれてくる子どもたちへの不安を一
生かかえることになるだろう。
 私の唯一の望みは?と聞かれたら、こう答えるだろう。
地球という名の青い星で、1986年4月26日を絶対に繰り返さないでください


 

暗い夜になる前に マリア・ゴルフビッチ(女13歳)

暗い夜になる前に マリア・ゴルフビッチ(女13歳)
ソコビッチ中等学校7年生 ソリゴルスク地区

 チェルノブイリが私の小さな村を荒らしたとき、私はたったの5歳だった。
不幸は私の家も避けはしなかった。
 兄のミーシャは、今もなお無慈悲に人々をなぎたおし続けている恐ろしい病気
ガンで死んだ。

 医者は放射能のせいだと言った。

 ミーシャは、20回目の春を迎える一週間前に死んだのだ

 今では、ガンがチェルノブイリ事故の影響であることを疑う人はいない。
 なぜ、私の兄に恐ろしい白羽の矢がたったのか。
 なぜ、今死んでいく何千人もの人々に白羽の矢がたったのか。

 兄は死ぬ前に、もう歩けなかった。
 兄は私にこう頼んだ。

 「僕のそばに座って、マーシェンカ、美男子になるように髪をすいてくれないか
」と。私は黙ってうなずいた。

 兄は暗い、生気のない目でただ私を見つめるだけだった。

 そして、私は一人祈りつづけた。

 命の灯りを
 消さないで 瞳さん
 暗い夜になるまえに

 家族みんなつらかった。
 私と母はミーシャをがっかりさせないように、こっそり泣いた。
 こうやってチェルノブイリはわが家に侵入し、壁にかかる遺影として永久に
住み着いてしまった。
 
 時は進む。人々は以前人生の出来事を思い出すとき「戦争前、戦争後」と
言っていたが、今では「チェルノブイリの前、チェルノブイリの後」と
言っている。それは悲しい歴史の区切り目となってしまったのである。


 チェルノブイリの悲劇は、私たち皆に慈悲、思いやり、良心を要求している。

 なぜなら、それがないところには不幸が住みついてしまうからである。
でも今わがやには不幸がいすわっている。それは出ていこうとはしない。

 何年たっても何世紀たっても
 この痛みは私たちから去らない
 それはあまりに大きく果てしなく
 どうしても鎮められない
 それは負の遺産として
 何世紀も 私たちの子々孫々に残るだろう
 そして彼らの心に居すわって
 永遠に平静を奪うだろう
 地球上の一人ひとりが
 このおそろしい年
 おそろしい日を覚えていますように
 

 わたしたちの涙で雪だるまが溶けた
 梓書院 チェルノブイリ支援運動九州より

僕は思い出す ワシーリー・アゲイチェンコ(男)

僕は思い出す ワシーリー・アゲイチェンコ(男)
 第141中等学校 8年 ミンスク市

 僕は思い出す あの春を
 大事な家はすぐ目の前だ
 駆け寄らずにはいられない
 なんて幸せだったことだろう
 なんて幸せだったことだろう


 陽気でほがらかで いたずらだった
 今、僕の家は空っぽ
 庭は雑草だらけ
 もう誰も魚釣りには行かない
 もう誰も魚釣りには行かない


 子どもの笑い声もひびかない
 春、あの爆発があって
 無数の人が被爆した
 無数の人が被爆した

 知らないうちに幸せがしぼむ
 またこの手に幸せをつかみたい
 だが、なつかしい麦畑から遠く
 ぼくは今、囚われの身
 ぼくは今、囚われの身

 ここはもうまっぴらだ

 病院 お医者さん 看護婦さん
 どうして僕はここに入れられた
 どうして僕はここに入れられた

 ぼくは家に帰りたい
 森に 野原に 湖に 帰りたい
 目に希望をうかべているだけでなく 
 目に希望をうかべているだけでなく


 看護婦さんがはいってくる
 同時に夢も消えてしまう
 くちびるから 笑みは去り
 感じやすい 青い瞳に


 わたしたちの涙で雪だるまが溶けた 梓書院
 チェルノブイリ支援運動九州より

私たちを助けてください 神様 タチヤーナ・アクレービッチ(女16歳)

私たちを助けてください 神様 タチヤーナ・アクレービッチ(女16歳)
 ゴメリ州カリンコビッチ第六中等学校十年生

 神様。もしあなたが天にいらっしゃるのなら私の祈りを聞いてください。
私の魂がいたく悲しんでいるのです。

 心がとても苦しいのです。

 教えてください神様。どうしてあなたはたくさんの苦しみを味わった国、
わたしたちのベラルーシをきびしく罰したのですか。
 あなたに対して何か罪をおかしたのですか。

 神様、私はあなたに訴えます。
 あの日、私は母と一緒に野菜畑を耕していました。
 庭は花で埋もれ、カリンコビッチの村の空は真っ青、そしてその空に太陽がやさしく照り
輝き、大地は喜びに満ちあふれていたかのようでした。

 私は思い出します。そう、あの日を。

 神様、何で言ってくれなかったのですか?
 太陽も、空も、空気もすべてすでにチェルノブイリの灰で毒されていたことを。

 敬愛する全能の神様、5月1日、私と母はきれいな小旗を持ってメーデーの行進に参加しました。
 空からは目に見えない放射能が私たちに降り注いでいたのですよ。
 今となってはこのことを思い出すだけでぞっとします。
 ストロンチウムやセシウムの中で行き続けるなんて背筋の寒くなる思いです。

 でも神様、私は感謝いたします。
 あなたは人の心を動かし、私や私と似た境遇のたくさんの人々を療養キャンプに行けるようにして
くれました。
 そのキャンプでは、私は体調は良かった。
 だけど、放射能で汚染された土地には、私の親戚や知人が残っていました。
 なぜだれもそのような人たちのことを考えてあげないのですか。
 彼らは何か悪いことをしたのですか?
 答えてください。神様

 アンドリューシャ・ポリーブニコフちゃんの手術のために私たちは世界中からお金を集めました。
 彼はいったいなんの罪をおかしたというのでしょう。
 それに私の先生の14歳の息子のアンドレイカ・コロチェイ君に、あなたはどうして怒っているのですか。

  神様。
 もう私には悲しみでふさぎこんでいる先生や、座ってくれる生徒を待っている9年A組の空いた席を
見る気力がありません。
 アンドレイカ君を助けてください、全能の神様。
 だって、彼は妹が大好きで、いつも二部授業が終わると妹を迎えに行っていたんですよ。
 その子は暗いのがこわいからです。
 そして彼は母親の手伝いが大好きです。(先生はよく働き、疲れやすいからです。)
 アンドレイカ君が生きられるように助けてあげてください。

 神様。病気でうちのめされ、もうあなたに頼るしかない全ての人々が生きられるようにしてあげてください。

 神様、あなたが私の家族の命を放射能の悪影響から守ってくださっていることに感謝します。
 わたしはまだ16歳なんです。
 知人が苦しんでいたり、ふるさとの大地が事故のことで人々から嘲笑を受けたり、かつてのような青さが
なくなった空を見上げたり・・・・・。
 そんな中で生きていくことは辛くて仕方ないのです。
 
 鳥が以前のようにさえずり、放射能のない暖かい雨が大地をうるおし、近所の年金生活の人たちがまた
祖母の家のそばのベンチに夜ごと集まって好きな歌を歌えるようにしてください。
 私の友人や知人の中にチェルノブイリの次の犠牲者を数えたりするかわりに・・・。

 神様、私は、愛し尊敬する全ての人のために毎日お祈りすることを誓います。
お願いですから、私の魂のなげきを聞き届け、私の大地と祖国を救ってください。


 昼も夜もあなたの子どもたちである私たちを見守り、真理の道へと導き、誘惑から遠ざけ、生きる力と
知恵を与え、そしてあなたの御名が照り輝きますように。

 わたしたちをお救いください。
 神様。



 わたしたちの涙で雪だるまが溶けた
 子どもたちのチェルノブイリ チェルノブイリ支援運動・九州
 

 




 
 

 

心に秘めた願望 ゴめりカリンコビッチ地区 エブゲーニ・ペトラシェービッチ

わたしたちの涙で雪だるまが溶けた
 チェルノブイリ支援運動九州 梓書店

 心に秘めた願望  エブゲーニ・ペトラシェービッチ 中等部10年生
 カリンコビッチ地区

 この森には何でもあった。草原は僕を引き寄せ、友達と長い時間を過ごした。
森はキノコの王国だった。
 しかし今は、すべて過去のものとなってしまった。
僕たちの村、ミノフビッチでの放射能の測定値は5キュリーに達した。
昔とはまったく違う村になってしまった。
 

チェルブイリは僕たちから、平穏、未来への希望、幸福への確信をすべて奪い取ってしまい
今はただ恐ろしい悪夢の時代になってしまった。
 僕は学生で、よく勉強している。僕や友達が熱望することは、将来、新聞、ラジオ、テレビが
報道している禁止事項がすべてなくなってしまうことである。
 大祖国戦争のとき、ベラルーシ国民は多大ば犠牲を払った。
 4人に1人が死んだ。
残忍なチェルノブイリは、何万人もの人々の命を奪い取去り、何万人の子どもを病院や診療所
にたたきこんだ。
 テレビで親たちが最後の望みをかけて、骨髄移植のために息子や娘を国外につれていく費用
を協力してほしいと訴える様子は見るに堪えなかった。
 血液のがん。これは治療の困難な現代の病気である。


罪深いチェルノブイリはとうとう僕にも甲状腺の病気をもたらしてしまった。今後どうなっていくのか
、予測はできない。
最近、僕はアリョーシャ・クリーガのチェルノブイリに関する本を読んだ。
彼はブラーギン地区病院の監査委員のメンバーとして従事した時のことを書いている。
その本のあるページに記載してあった診療登録されたカルテのデータは、心の痛みなしには
読むことができなかった。
 エレナ・D 1985年生まれ 線量 396レム
 アンドレイ・G 1985年生まれ 線量 788レム
女の子や男の子が百名以上も、甲状腺の被ばく線量の数字とともに並んでいる。
なんと恐ろしいことだ。
 戦争があったわけでない。爆弾が落とされたわけでない。
 地雷が落とされたわけでない。
だが、子どもたちが死んでいく。
これが戦争でなくてなんであろう。災難は音もなく、裏切りもののように忍び寄ってくる。
僕たちは何のために生きているのだろうか。
森の中に入るのは禁止。草原で遊ぶのは禁止。
魚釣りも禁止。しかし、生きることは許可する。人間の命はなにものにもまさり尊いと言いながら、
農民の子どもが自分の血でのどを詰まらせている。
ナローブリャの男の子が授業中に気絶する。
ブラーギンでは先生が女の子の出血を止められないでいる。
なぜ、こういうことに目を向けるのであろうか。
この不幸なこどもたちを救うためには何ができるだろうか。
 

チェルノブイリの苦痛。この問題は永遠の課題になってしまった。
僕たちはみな、チェルノブイリによって刻印を押された無実の囚人である。このような生徒はベラル
ーシに50万人いる。僕たちはストロンチウムに汚染されたリンゴを食べ、セシウム入りの牛乳を飲み
致死量の放射能に汚染された土の上を歩き、そこで遊んでいる。
 チェルノブイリの悲劇はわれわれの健康、魂、運命を損ない続けている。
 僕はこんなことが起こるのは嫌だ。僕たちはみんな将来によりよい希望を持って生き、遊び、楽しみ
たいのだ。


1992年発行のベラルーシの民話7号を読んだ。
 そこには心配なことが書かれていた。
 放射能のもとでの生活は、青少年個人に対して不幸なつめあとを残すこととなる。
そこには学校でおこなわれたアンケートの結果が掲載してあった。
 質問は君の心からの願望は何かというものであった。
 多くの子どもたちの答えは次のとうりである。
「お母さんが絶対病気になりませんように」
「生きたい」「人々が健康でありますように」
ある少年は「早く死にたい」と答えた。
 こうした言葉は、子どもたちを支援し援助する義務を放棄した大人たちへの告発状である。


草木は生い茂るが、喜びはなくなる。何でもあるが、人はいない。ようなことにならないだろうか。


プロフィール

子供たちのチェルノブイリ

Author:子供たちのチェルノブイリ
昔、こどもたちのチェルノブイリの作文集を選ぶボランティアをしました。この時の衝撃は今も心に残っています。
 連絡先
 ohanamoon@gmail.comまで

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